「めぐり逢う理由」 (第一章 百年前の恋)-12-

 海部の部下たちが橋の階段を上ろうとしたその時、残っていた二つの橋が轟音とともに崩れ始めた。

『一つは三つにあらず、三つは一つにあらず』

 橋の看板の消えかけた文字が浮かび上がり、橋は対岸から順番に倒壊した。

「キャー!」

 多み子と新吉は崩れ落ちる橋の欄干を必死で掴んだが、そのまま川に放り出されてしまい、川の中で新吉は橋の瓦礫と川の流れに阻まれて多み子を見失ってしまった。

「多み子! 多み子!」

 首だけを水面から上に出し、周りを見渡し名前を叫んでみるが多み子の姿が見つからない。その時、川の下流の一点を目掛けて突進するプーの姿が目に入った。プーの目指す先に新吉は多み子の姿を見つけた。新吉は急いで多み子のもとに向かった。

「多み子!」

 新吉が多み子の腕を取って川岸に運ぼうとしたその時、橋の瓦礫が二人に襲い掛かってきた。

「うわーっ」

 新吉は多み子をかばって多み子に覆いかぶさった。(だめだ!)新吉がそう思った次の瞬間、

「プーーー!」

 プーがその瓦礫に体当たりした。プーの命がけの体当たりは瓦礫の向きをわずかに変えた。

「プー助!」

 プーは瓦礫とともに流されて行った。新吉はどうすることもできず、川の流れに白く漂うプーの姿をただ見送るしかなかった。

「プー助……」

 それでもどうにか多み子を岸まで連れてきた新吉は、多み子を抱き起し、多み子の名前を必死に叫んだ。

「多み子! 多み子! 多み子!」

「新吉……さん」

 新吉の腕に抱かれて多み子が小さくつぶやいた。

「多み子! しっかりしろ!」

「良かった……新吉さん無事だったのね」

「わしゃ何ともない。大丈夫だ」

「ごめんなさい。私のせいで大切な橋が……」

「何を言うとる。お前は何も悪くない。しっかりしろ!多み子!」

 それを聞いた多み子が新吉の頬に手を伸ばした。しかし、その手はすぐに、多み子が苦悶の表情を浮かべたのと同時に下に垂れた。

「多み子! 多み子! 死んじゃいけん、いけんよ!」

 新吉は必死に多み子の名前を呼んだ。そうしなければ、多み子の魂が多み子の身体から抜け出て行ってしまいそうに思えた。

「多み子! いけん、死んじゃいけん、いけん」

 その声で呼び戻されたのか、多み子の目が僅かに開いた。ただ、そこに見えた瞳の光はあまりにも悲しく弱々しかった。もう、多み子には新吉の顔が見えていなかったのかも知れない。それでも、そこに新吉の温もりだけは感じ取っていた。確かに。

「いけん……いけん……ふふ。おかしい……新吉さん、いつも誰かを心配してばかり」

 多み子の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「多み子、わしが心配なのはお前だけじゃ。だから、だから死なんでくれ。多み子、お願いじゃ」

「新吉さん……」

 多み子が最後の力を振り絞って新吉の頬に手を当てた。もう見えない目の代わりに、新吉の顔を自分の手のひらの感触で覚えておこうとしたのだろう。新吉の温もりは多み子の手のひらに確かに刻み込まれた。

「新……吉さん……」

 新吉は多み子のわずかな声を聞き取ろうと、多み子の口元に自分の耳を近づけた。

「……だい……す…………」

 あれほど練習したのだから、多み子に想いを声にする力が残ってさえいれば、きっと伝えられたはずだった。けれど、それは叶わなかった。新吉の腕の中で多み子の瞳は静かに閉じられた。

「多み子? いけんよ。死んじゃいけんよ。多み子! 多み子!」

 

― いのち短し恋せよ乙女 あかき唇あせぬ間に ―

 

『いのち……』それが儚いものだとは知っていたが、こんな終わり方をするものではなかったはずだ。新吉と出会ってわずか半年余り、命をかけて恋した乙女の悲しい最後だった。

 

 新吉と多み子を救おうと川に飛び込んだプーの亡骸が見つかったのは翌日の朝だった。龍背大橋から三キロも下流に流されていた。プーはいつも多み子と一緒だった。だから、多み子と一緒に天に召されたのだ。きっとそうなのだと、奈美は思うことにした。

「み子。内気で大人しいあなたが、あの橋を守ろうとしたなんて……馬鹿ね。あなた馬鹿よ。臆病なくせして、あなたのどこにそんな強さがあったの? 私が一緒に行ってあげればよかった。どうしてひとりで行ったりしたのよ。この玉簪何のためにお揃いで買ったのよ。あなたとずっと一緒にいるためでしょ! それなのに馬鹿、馬鹿……み子の馬鹿! 私、ひとりでこれからどうすればいいの。ねえ、み子、また豆寒天食べに行こうよ。目を開けてよ。お願いだから。ねえ、み子、み子、お願いよ。み子! うっうっわあーん」

 奈美はそう言って多み子の亡骸にすがって泣いた。ずっとずっと泣き続けた。見かねた誰かが多み子から引き離そうとしたが、奈美は応じなかった。数年後、遠方に嫁いだ奈美はその後両親が亡くなった時も、夫に先立たれた時も唇をきゅっと閉じ肩を震わせることはあっても、決して涙を見せることはなかった。奈美は、恐らく一生分の涙をこの時、多み子のために流してしまったのかも知れない。

 父親の虎之助は自分のしたことを悔いた。多み子の供養のためにと龍背大橋が見下ろせる山の上に巨大な観音像を建てた。成金のすることはどこまで行ってもやはり成金だった。多み子の葬儀は虎之助の意向で盛大に行われたが、虎之助の正妻は多み子が西條家の墓に入ることを許さなかった。

  多み子の葬儀の場で海部義則の頬を平手で殴った女がいた。早苗だった。早苗は、新吉と多み子が育んだ小さな恋が、金目当ての男の一方的な暴力で無残にも壊されたことに激しく怒った。早苗の脳裏に思わず、新吉に寄り添う髪飾りを付けた多み子のはにかんだ笑顔が浮かび、早苗は泣きながら何度も海部の頬を打ち続けた。

 多み子の葬儀に出ることも叶わず、誰よりも深い悲しみに沈んだのは言うまでもなく新吉だった。新吉は多み子とよく待ち合わせに使った場所に小さな祠を建てた。プーの亡骸も祠の傍に埋めてやった。そしてその祠に自分で彫った小さな木彫りの観音像を収めた。『多み子』と書かれた木札と多み子に渡すはずだった、けれど渡せなかった髪飾りとともに。

 新吉は祠の前で手を合わせ多み子に語り掛けた。

「多み子……。いつだったか、わしの夢は何かとお前に聞かれたことがあったのう。あんときは照れくそうて言えなんだが、わしの夢はわしたちの住むあの村を豊かにすることじゃ。今はまだ自分たちが食うのがやっとじゃが、いずれ町に出て村で採れた米や野菜を売るんじゃ。そうすれば村はもっと豊かになる。そのためには、山を切り開いて田畑を耕し、いい土を作って米も野菜もたくさん実らせにゃいけん。分かるか? 多く実る……お前の名じゃ。お前の名がわしの夢じゃ。じゃから、わしがその夢を見失なわんように、お前にはわしの傍にずっといて欲しかった。お前と一緒に夢を叶えたかった。じゃのに、わしゃ、お前を助けてやれんかった。わしゃ、お前のことが……うっうっうう……許してくれ、多み子」

 多み子は西條家の墓に入ることを許されなかったが、そのことは多み子にとって幸いした。多み子は母親の多恵の墓に入れられた。

「誠世院清雪美優童女(せいぜいんせいせつびゆうどうじょ)」

 汚(けが)れ無く、雪のように真っ白なままでこの世を去った、美しく優しい少女の眠る墓にはそんな戒名が刻まれていた。

 

 時に、大正五年十一月。

 いつもの年よりひと月も早く、熊野川の水面(みなも)に初雪が舞い降りた。

 美雪が生まれる八十年ほど前の話だ。(つづく

 

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