「あなたへのダイアリー」 (第八章 夏まつり)-3-
三日後、夏まつりの夜、キン婆に連れられて、左手で杖を突きながら亮介がやってきた。少し先に亮介を待っている優子の姿が見えた。
「一人で歩けるか?」
「ええ、大丈夫です」
「そうか、じゃあ、行ってやれ。優子が待っとるぞ」
キン婆は二人の邪魔にならないように、自分はとっとと帰る素振りを見せた。亮介に背を向けて、今来た道を戻ろうと歩き出したキン婆の背後から亮介が声をかけた。
「おばあさん」
「ん? どうした?」
「ありがとう……ございました」
キン婆にはそれが亮介の別れの言葉に聞こえた。口の達者なキン婆が、珍しく一瞬、言葉に詰まった。亮介にしてやれることはもう何もない。せめて、最後に優しい言葉の一つもかけてやりたかったのかもしれないが、亮介の前では最後まで怖いままのキン婆でいようと思った。それが、これまで何十年もの間に大田原商店にやってきた、たくさんの子供たちに対するキン婆の変わらぬ愛情表現だった。
「ば、ばかやろう! 礼なんぞいるか。それより、ちゃんと病院に帰って来いよ。優子と二人で。いいな」
「はい」
「じゃあな、もう行けよ。優子が待っとるぞ。いいねぇ。若いってのは。わしも、もうひと花咲かせようかねぇ」
強がって我慢していたが、亮介に背中を見せた途端、キン婆の目から涙が溢れた。
「夏は虫が多くてやだねぇ。目に虫が入っちまった」
亮介は立ち去っていくキン婆の背中に向けて深々と頭を下げた。そして、待っている優子を目指してゆっくりと歩き出した。
「優子ちゃん、待たせてしまったね」
「ううん」
商店街の大通りを祭りの山車が練り歩いている。それを露店の店が取り囲んで、間には大勢の人が大人も子供も入り混じってうごめいている。普段は静かなこの街も祭りの時だけは華やかだ。
優子は亮介の体のことを考えて、その喧騒から少し離れた場所で祭りを見ることにした。
「亮介さんは、この町で生まれた人だからお祭りは初めてではないでしょ?」
「ああ、そうだね。子供の頃、小学校の低学年くらいまでは父親に連れられて毎年来ていたなぁ」
「そう、お父様と……」
「ああ、あんな事件を起こした父親だったけど、小さい時からぼくのことはよくかわいがってくれたんだ。だから、あの事件が起きた時も、ぼくはどうしても父親を恨む気持ちになれなかった」
亮介は遠い目をして、祭りの人ごみの中に父親の姿を探しているようだった。
- ヒューウ、ボン、ボン、パパパーン、パン、パン -
祭りが最高潮に達した合図に、夜空に花火が開いた。
「きれいね」
「ああ、きれいだね」
「亮介さん、これ」
優子は、夏まつりの日の貴美子の写真を亮介に渡した。
「これは? 優子ちゃん?」
「ううん、それ、お母さんの写真。お母さんが十七歳の夏まつりの日に撮った写真です」
「それじゃあ……」
「ええ、亮介さんと会う約束をした、あの夏まつりの日です」
亮介は、手に取った写真と目の前にいる優子を重ねて見た。
「この浴衣はその時の?」
「ええ、お母さんの浴衣です」
亮介は、優子が自分を夏まつりに連れ出した理由がようやくわかった。
「ありがとう。ぼくは、あの日に戻ることができたんだね……」
「ええ、ええ」
優子は、亮介に自分の気持ちがわかってもらえてうれしかった。しかし、それと同時に、亮介を失うことの寂しさもこみ上げてきて、涙が急にあふれ出そうになった。その泣き顔を見られる前に、亮介の胸に顔をうずめた優子を、亮介も思わず持っていた杖を投げ出して抱きしめた。
- ヒューウ、ボン、ボン、パパパーン、パン、パン -
再び、花火の光が夜空に舞った。その光に映し出され、二人のシルエットが見え隠れした。せめてこの花火が鳴り終わるまでこのままでいたい。いや、できることなら、もっと、もっと長く、いつまでもずっと亮介とこうしていたい。
優子は、もう一度しっかりと亮介にしがみつき、”このまま時が止まればいいのに。このまま、この夏が終わらなければいいのに……” と、そう願った。(つづく)