「あなたへのダイアリー」 (第八章 夏まつり)-5-

 翌日の夕方、キン婆が優子を探して病院の屋上にやって来ると、そこにはひとり、夕日を見つめている優子の姿があった。

「やっぱりここにいたか。いいのか、亮介の傍にいなくて」

「ええ、亮介さんの顔を見ていたら、辛くなっちゃって……」

 後ろから近付いてきたキン婆のその問いかけに、自分の泣き顔を見られたくなかった優子は、相変わらず夕日を見つめたまま振り向かずにそう答えた。優子は指で少し涙を拭ってから、ようやくキン婆の方を振り向いた。

「ねぇ、お婆さん?」

「ん? なんだい?」

 キン婆は優子を探し回って疲れたのか、すでに患者の休憩用に置かれたベンチにどっかりと腰を下ろしていた。

「あのね、亮介さんとお母さん、二人の人生は幸せだったのかなぁ」

 優子の目からさっき拭ったはずの涙が頬を伝わって落ちた。それを見たキン婆は、ベンチに座ったまましばらくは黙って何かを考えている様子だったが、優子を隣に座らせると徐(おもむろ)に話し出した。

「幸せだったに決まっているだろ。そんなの当り前さ。あの子たちが幸せだったからこそ、今、お前がこうして幸せにしていられるんだ。一生懸命に生きた人間の人生が幸せじゃないなんて、そんなことはないのさ。亮介は真剣に貴美子のことを考えた。貴美子も亮介のその思いに応えるべく一生懸命に生きた。短かったかもしれないが、間違いなく二人は幸せだったはずさ」

 優子はまだ目を潤ませたまま、黙ってキン婆の話を聞いていた。

「それに……。二人の魂(たましい)は、生まれ変わっていつかどこかの街で必ずまた出会うさ」

「生まれ変わって?」

「ああ、そうさ。また、会えるさ」

「本当に?」

「ああ、本当だとも!」

 優子は半信半疑でキン婆に尋ねたが、妙に自信ありげなキン婆を見ているうちに、もしかしたら、世の中には本当に、常識では計り知れないそういう不思議なこともあるのかなぁと思った。

「でも、出会ってもお互いのことがわかるかしら?」

「それは大丈夫さ。二人しか知らない秘密があればな」

 優子にまるで神のお告げでも伝えるかのように、口に手を当ててひそひそ話のように声は小さかったが、キン婆は、さっきにも増して自信がありそうだった。

「秘密?」

 優子がそう聞き返すと、キン婆は黙ったまま、にんまりと二回ほどうなずいて見せた。それを見た優子にいつもの笑顔が戻った。

「そっかぁ。じゃあ、私も亮介さんとお母さんにきっと会えるわね! だって、二人の秘密を私も知っているんですもの」

 自分は一人じゃない、そう思うことができたのか、再び夕日を見つめた優子の目に涙はもう見えなかった。

 人は、絶望だと言われれば、絶望する。でも、もしかしたら……とか、万が一に……とか、ほんの僅かな可能性を与えられると、そこに大きな希望の光を見出すことができるのも、また人である。ティムが亮介の言葉で希望を持つことができたように、優子もまたキン婆の言葉で前を向くことができたのだった。

「優子、これからお前はいろんな男性と出会うじゃろう。その時、誰かに言われた何でもない言葉や、何かしてもらった些細なことが、他の人にされるよりも妙にうれしかったり、懐かしかったりしたら、その誰かが、お前の運命の人なんだよ。それが、前世でお前とその人が交わした二人の秘密の合言葉であり、二人しか知り得ない前世の秘密の思い出なんだよ。分かったかい?」

「はい」

 優子は何か思い当たることがあるのか、キン婆の言った言葉を素直に受け入れた。優子にとって、亮介と一緒に過ごした時間がそうだったからだ。亮介が何気なく掛けてくれた言葉を聞いた時や、大きな胸に抱きしめてもらった時、他愛もないことで二人で大笑いした時、いつもそこに、うれしさや懐かしさを感じることができた。

 しかし、亮介は優子にとっての運命の人ではなかった。亮介が、貴美子の日記に書いてあった、一度は優子も憧れた亮ちゃんだったからそう感じたのだろう。優子にもそれは分かっていた。もしも、あの日記がなかったら、亮介に対して同じような感情を抱いていただろうか? 優子はキン婆に背を向け、屋上の手すりに両手を掛けると、まだ山陰に沈まずに残っていた夕日の向こうに、亮介の顔を思い浮かべてみた。そして、しばらくして、振り向いた優子の瞳は、何かを確信したように輝いていた。

「おばあさん、私ね」

「ん?」

「私ね、やっぱり、亮介さんのことが好き……。お母さんに負けないくらい大好き! だからね、私、お母さんより先に亮介さんを見つけるわ。お母さんのように、亮介さんと二人だけの想い出はたくさん持っていないけど、でも、私にも少しだけあるのよ。亮介さんと二人だけで過ごした時間が……」

 優子は亮介と過ごした二人だけの時間を拾い集めた。

 フクベェの陰から飛び出して亮介を驚かせた時、おやしろ祭からの帰り道、それに、お弁当をおなか一杯食べて、いっぱい笑った浦山公園へのピクニック……。そう言えば、ピクニックへ行った時、こんなこともあった。公園に落ちていた小枝を拾って亮介にいたずらをした。「あっ、こら、やったな!」そう言って、いたずらに気づいた亮介に、頭をコツンとされた。うれしかった……。

「二人だけの思い出が、私にもあるのよ。だから、きっと私にも見つけられるわ」

 キン婆は、少し若返った亮介の隣に並んで立つ、優子の花嫁姿を思い浮かべて微笑んだ。

「そうか、じゃあ、もう戻ってやれ。亮介が寂しがるぞ」

「はい!」

 元気に亮介のもとに戻っていく優子の後ろ姿を見送ったキン婆は「ふぅー」と大きく一つ息を吐いた、そして、優子が見ていた夕日を見つめ、しばらくはその場で遠い昔のことを思い出していたが、夕日が山のすそ野に隠れてしまいそうになった頃、キン婆は自分も病室に戻ることにした。

「亮一よ。おまえのうそ話が初めて役に立ったよ。わしが少し手直ししてやったがな。おまえの唯一の手柄は幼かった亮介をかわいがったことだけだからな」

 誰を思って言ったのか、沈む夕日に向かって名残り惜しそうにそう呟くと、キン婆はようやくベンチから立ち上がり優子の後を追った。(つづく

 

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