「あなたへのダイアリー」 (第八章 夏まつり)-4-
最後の花火が大輪を描き、ひと夏の夢は終わった。亮介を失いたくないと願った優子の想いは届かなかった。祭りの終わりを知っていたかのように、亮介の意識は遠のいて行き、自分の体に亮介の重みを感じた優子は、崩れ落ちる亮介の体を支えながら必死に亮介の名前を呼んだ。
「亮介さん! 亮介さん!」
その声が届いたのか、倒れ込む前に亮介はかろうじて意識を取り戻した。
「優子ちゃん……」
「亮介さん、大丈夫?」
「あ、ああ」
「あそこまで……。フクベェのところまで歩けますか?」
優子は亮介をフクベェの前のベンチに座らせ、キン婆に連絡をしようと思った。キン婆に知らせればすぐに救急車で亮介を運べる手はずになっていた。亮介はフクベェまでのほんの僅かな距離を優子に支えられながらゆっくりと歩いた。
「亮介さん、ごめんなさい。私がお祭りに連れ出したりしたから」
優子の悲壮な顔を横目に見ながら、亮介は優子に心配かけまいと “そんなことはないよ” と、そう言いたかったのだが、もう力もなく、首を横に小さく揺らすことしかできなかった。ベンチに着くと優子は亮介をそこに静かに座らせ、キン婆に連絡しようと巾着から電話を取り戻した。
「今、救急車を……」
電話をかけようとした優子の手を亮介が止めた。
「亮介さん……」
「いいんだ、もう、いいんだ……」
亮介はベンチに凭(もた)れ掛かり目は閉じたままであったが、優子の手をしっかりとつかんで離さなかった。
「でも……」
「もう、いいんだよ……。もう……貴美ちゃん」
「え?」
亮介が、なぜ突然貴美子の名前を呼んだのか、優子にはわからなかった。
「亮介さん?」
亮介は目を閉じたまま、独り言のように何かを呟いている。優子はそれを聞き取ろうと亮介の口もとに耳を近づけた。
「貴美ちゃん……。ぼくは、君との約束を守ることが出来たのかなぁ」
優子は亮介には貴美子が見えているのだと思った。瞼のうしろの幻に向かって問いかけているのだと。優子は亮介の小指に自分の小指を絡ませ、貴美子の幻の代わりに答えた。
「ええ、ええ、そうよ。亮ちゃんは、ちゃんと約束を守ってくれたわ。ありがとう」
その言葉に、安心したように亮介が微笑んだ。そして、隣に座った優子に身体を預け、静かにゆっくりと話し始めた。
「貴美ちゃん、覚えているかい? ぼくが初めて君の家に行った時のことを。あの日、ぼくは頼まれた書類を届けに君の家に行ったんだ」
「ええ、覚えているわ。亮ちゃん、突然やって来るんですもの。驚いたわ。部屋着でいた私はあなたに可愛らしく見られたくて、急いでお気に入りのブラウスに着替えたの。でも、今思えば可笑しいわよね。家に居るのに、あんなよそ行きみたいな格好しているなんて」
「でも、ぼくは君のその可愛らしい姿に釘付けだった。あの時、ぼくは君のことをよく知らなかったのに、君がぼくの名前を知っていて、ぼくはとても驚いたんだ。君を初めて見た時、ぼくはその時からもう君を好きになっていたのかもしれないね」
「でも、亮ちゃんは用事が済んだら慌てて帰ろうとしたのよね。私はお茶をごちそうするからと言って引き留めたわ。あなたに、そのまま帰って欲しくなかった。だって、私はあなたに会う前から、その前からもうあなたのことを好きだったんですもの」
「ぼくは、君の部屋に入れてもらったね」
「そうね。でも、うっかりしてたわ。あなたにあの写真を見られたときは、恥ずかしくて慌てて隠しちゃった」
「ぼくはその写真が誰だかわからず、君の慌てぶりからして、きっと、君の彼氏の写真だろうって、勝手に思い込んでしまった。初めて会った君のことを何も知らなかったから……」
「私はあなたのことを知っていたわよ。野球の試合も何度か観に行ったわ」
「ぼくはそんなことも知らず、甲子園に向けて必死だった。それがぼくのたった一つの夢だったから」
「ええ、知っているわ。私はあなたの野球に打ち込む真剣なまなざしが好きだった。つまらないことで投げやりに生きていた私の気持ちを変えてくれたの」
「ぼくが? 君の気持ちを?」
「ええ、そうよ。私はあなたに教えてもらったの。青春を無駄に生きてはいけないと。私のたった一度しかない青春は、あなたのお陰でとても輝いた青春だったわ。その思い出は誰にも消すことのできない、今でも私の大切な宝物よ。あの事件があって、あなたと離ればなれになってしまったことはとても悲しかったけれど、でもね、私、こう思うの。私はずっとあなたと一緒にいたんじゃないかって」
「ぼくと?」
「ええ、私はあなたに教えてもらった通り、一生懸命に生きたのよ。大学に行って勉強も頑張ったし、就職してやりがいのある仕事にも就いたわ、結婚はうまくいかなかったけれど、娘が生まれてお母さんにもなった。『悩んでも傷ついても、それは一生懸命に生きた人間の努力の証。いいことも悪いことも、精いっぱい努力したことの結果でなくてはいけない』あなたの言ったこの言葉を胸に私は生きてきたの。だから、私の人生はずっとあなたに見守られているような気がしていたわ」
「ぼくも、君のことを忘れようとして日本を飛び出したけれど、やっぱり君のことは……。君のことだけは忘れることができなかった。随分と……時間がかかって……しまったけれど……ぼく……たちは……また……会う……ことが……できたん……だね」
亮介の声が急に弱々しく小さくなった。優子は亮介をしっかりと抱きしめ叫んだ。
「そうよ! また会えたのよ。だから、しっかりして、亮ちゃん! 私の大好きな亮ちゃん!」
「貴美……ちゃん、ありがとう。ぼくを……好きに……なってくれて……」
その時、しっかりとつないでいた筈なのに、亮介の小指が優子の手からするりと抜け落ちた。
「亮ちゃん! 亮ちゃん!」
優子は亮介を呼び戻そうと必死に叫んだ。
「亮ちゃん! 死んじゃいやよ。死なないで。亮ちゃん!」
亮介に抱き着いて叫んだ優子の耳元で、亮介が声を絞り出すようにして囁いた。
「ありが……とう……優子……ちゃん」
亮介の意識が現実に戻ったのか、貴美子の幻として芝居をしてくれた優子の優しさに対して言ったのか……
それが、亮介の最後の言葉だった。
「亮介さーん!」
人ごみの喧騒に優子の声は掻き消されてしまったが、祭の余韻に浸ることもしないで、街は元の姿へと戻って行った。(つづく)