「あなたへのダイアリー」 (第七章 追憶)-2-

 山下と友部が写真館にやって来たその日、亮介はきみ寿司に行ってみることにした。店に入ってみると客は疎らで、優子の姿もそこにはなかった。

「いらっしゃい! 毎度どうも」

 いつもと変わらない源治の威勢のいい声を聞いて亮介は少し安心した。カウンターに座って少し時間が経ったころ、

「優子! 冴木さんがいらしてるぞ」

 源治が気を利かせて優子に声を掛けてくれたのだが、

「ごめんなさい。今、手が離せないの」

 そう返事が返ってきた。

「あいつ、こないだから何やってるんだ。すいませんね、冴木さん、気まぐれなやつで」

「いや、受験生だし優子ちゃんも何かと大変なんでしょう」

 そうは言ったものの、亮介は、やはり優子の様子がおかしいと思わざるを得なかった。たとえ受験勉強でどんなに忙しくても、以前の優子なら休憩を理由に必ず亮介に会いに二階から降りてきていた。しかし、優子は降りてこなかった。

「まあ、今日のところは、このじじいで我慢してください」

 心配そうな顔をしていた亮介も、源治にそう言われて思わず口元が緩んだ。

 亮介と源治が下で話している間、優子は自分の部屋で机に置かれた貴美子の日記帳をずっと見つめていた。机の上には、先日のピクニックの際に亮介と一緒に撮った二人の楽しそうな写真が飾られていた。

「やはり……冴木さんは、あの中谷亮介なんだわ」

 目に浮かんだ涙で机の上の写真が歪んで見えた。今思えば、優子は亮介について何も知らなかった。これまでも何度か亮介の仕事のことや家族のこと、どこに住んでいるのかなどいろいろ聞いてみたいとは思ったが、それを聞いてしまうと亮介が自分の元から離れて行ってしまいそうな気がして、結局、これまで聞くことはできなかった。

 机の上で開かれた貴美子の日記帳には、フクベェの陰に隠れて貴美子が亮介を驚かせようとしたときのことが書かれていた。その内容は、あの時、優子が亮介に仕掛けたいたずらと同じだった。

 

 亮ちゃん、今日はごめんなさい。だって、亮ちゃんがもっと驚いてくれると思ったのに全然驚かないんだもの。私がフクベェの後ろに隠れていたのが亮ちゃんにはわかっていたのね。だから、“もっと、驚いてよ!” なんて言われても困るわよね。でも、亮ちゃんは “ごめん、ごめん” っていつものように謝ってばかり。そんなことですねた私が悪いんだから、そういう時は遠慮なく私を叱ってね……

 

 あの時の亮介の驚きようは、今考えても普通ではなかった。優子はその時の亮介の様子を思い出していた。まるで、幽霊でも見たかのように、青ざめた顔で自分を見つめていた。そして、あの時、亮介が何とつぶやいたのか、優子は今、はっきりと分かった。

「貴美ちゃん……。確かに、冴木さん、そう言ったわ」

 優子は、冴木……いや、中谷亮介が突然目の前に飛び出してきた母親とそっくりな自分の姿を見てあんなに驚いたのだ。そして、あの日母親の墓に供えてあった花も中谷亮介がそうしたのだと確信した。

「今さら、後悔したって……。お母さんはもう死んじゃったんだから」

 優子は日記帳を閉じるといつもの場所に立てかけた。そして、どうして母親に何も言わず姿を消したのか、なぜ、母親にあんな悲しい思いをさせたのか、中谷亮介を問い正したいと思った。

 冴木達也は中谷亮介なのだ。それは間違いなくそうなのだと確信したが、優子には一つだけわからないことがあった。鉛筆で引かれた線で消されていたが、亮介の上着から落ちたメモに書いてあった、『貴美ちゃんの生まれ変わり』とはどういうことなのか。恐らく自分のことを言っているのだろうと、優子はメモの文面からそう思ったが、いくら自分の顔や姿が二十七年前の母親にそっくりだからと言って、いい大人がそんなオカルトみたいな話を信じるとは考え難い。それに、『秘密』とは何なのだろうか…。

 そう言えば、亮介が二度目に店を訪れた時、亮介にフクベェのことをしつこく聞かれたことがあった。何故、福助をフクベェと呼ぶのか、フクベェという名前は自分で考えたのか、エサをやることも自分で考えたことなのか、確か亮介はそのことを酷く知りたがっていた。

「もしかして……」

 優子はさっき立て掛けたばかりの貴美子の日記帳を再び取り出すと、既に開くべきページが分かっているかのように、親指を滑らせパラパラと紙を弾いた。

「ここだわ」

 そこには貴美子が福助をフクベェと命名した経緯が書かれていた。それは、優子が亮介に話したことと同じだった。

 

 亮ちゃん、福助の名前、やっぱり「フクベェ」でいいよね。だってあの子のおとぼけ顔にはこの名前がピッタリよ。亮ちゃんもこれからは「フクベェ」って呼んでね。それに、フクベェに餌をあげるときは豆ピーを三粒だけよ。食べすぎは健康に良くないわ……。

 これは二人だけの秘密よ。今日、帰りにそう約束したでしょ? だから、誰にも言っちゃだめよ。

 私、亮ちゃんと二人だけの秘密をもっとたくさん作りたいわ。そうすれば、亮ちゃんとずっと一緒にいられるような気がするの……。

 

 母親の無邪気な日記の文面はすべて母親が亮ちゃんに宛てて書いたラブレターだと思い込んでいた優子は、これまでそんな思いで日記を読んだことがなかった。よく見れば、この日記帳に書き綴られていたことはすべて、貴美子と亮介の二人しか知らない秘密だったのだ。いつも『亮ちゃん』から始まる貴美子の日記は、貴美子が亮介と二人だけで過ごした時間を丁寧に綴ったものだった。

「だから……。だから、私が何故、フクベェって名前を知っていたのかを冴木さんは知りたがっていたんだわ。他人が知るはずもない二人だけの秘密を私が知っていたことが、きっと不思議に思えたんだわ」

「優子! 冴木さん帰っちゃうぞ!」

 店の方から再び源治の声が聞こえたが、優子はそれに答えなかった。母親を捨て、母親にあんなに悲しい思いをさせた中谷亮介である冴木に心奪われた自分が許せなかった。

「私に優しくしてくれたのは、お母さんへの罪滅ぼしのつもりだったの? それとも、私がお母さんに似ているから……。お母さんの生まれ変わりだと思ったからなの? 冴木さんには私ではなく、お母さんが見えていたのね。それなのに私、ひとりで舞い上がっちゃって……。馬鹿みたい」

 優子の目から涙が溢れ出した。それは、亮介に対する憎しみからではなかった。自分が好きになった冴木が、冴木ではなかったことに、言いようのない寂しさが胸に込み上げてきたからだった。机の上に飾られた二人の写真は、涙で霞んでもうはっきりとは見ることができなかった。(つづく

 

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