「あなたへのダイアリー」 (第七章 追憶)-8-

 優子は若い医者に連れられるままに、勝手のわからない病院の廊下を歩き、先ほどキン婆と一緒にいた待合室とは別棟の建物に来ていた。その中の『カンファレンス・ルーム』と書かれた部屋の前まで来ると、若い医者はドアを開けて優子を中に入れた。二人で使うにはあまりにも広すぎるその部屋の片隅に優子を座らせると、自分は立ったまま、若い医者は話を始めた。

「こんなところまでわざわざ来ていただいたのは、お父様の病気についてお聞きしたいと思いまして。お父様の持っていらした薬の袋から、病院と主治医の先生がわかりましたので、そちらに問い合わせてある程度のことはこちらでもわかっているのですが、できれば、普段のお父様のご様子とか、飲んでいる薬の量とか、そのあたりをなるべく詳しく……」

 優子は、この若い医者が急に何を言い出したのか理解できず、その言葉を遮って聞き返した。

「あの、父の病気って?」

 それまで、医者という職業に酔いしれて流暢な物言いで話していた若い医者は、優子のその言葉に驚いたようだった。

「え? もしかして、病気のこと知らなかったんですか? いや、まいったな。てっきりご存知かと思って。んーえーと、何でもありません。忘れて、忘れてください」

 若い医者は、もしかして娘には内緒にしていたことなのか、自分は今、その娘に余計なことを言ってしまったのではないかと狼狽(うろた)えて、座っている優子の前を、動物園の熊のように行ったり来たりした。優子はその様子を見て何か普通ではないことを感じ、先ほどの自分の言葉を咄嗟に言い直した。

「いえ、病気のことなら父から聞いています。でも、薬のこととか詳しいことはわかりません」

「え? ああ、そう。聞いているの。そうだよね。家族だものね。そうか、びっくりしたー」

 優子の芝居にすっかり騙され、若い医者は安心した途端、亮介の病気について、優子に洗いざらい全部話してしまった。病名や症状について、若い医者は専門用語を並べて自分の知識を自慢げにまくし立てたが、優子にはそのほとんどが理解できなかった。

 ただ……。 “亮介が死んでしまう。もう助かる道はない “ そのことを理解した時、優子は自分の身体が次第に冷たくなっていくような感覚に襲われた。そして、それ以上は若い医者がいくら夢中になって話しても、優子の耳にはもう何も聞こえてこなかった。

 今、目の前で、身振り手振りしながら、こちらに向かって何かを言っているその若い医者は、きっと歪んだスクリーンに映し出された虚像で、自分はその音声の途切れた映像を無理やり見せられている客の一人に過ぎない。この部屋のどこかにあるプロジェクターのスイッチを切ってしまえば、スクリーンの映像とともに若い医者も消えていなくなるだろう。亮介が死んでしまうなどと言う空言(そらごと)とともに…。

 “このお医者さん、どうして私にこんな嘘をつくの? 亮介さんが死んでしまうなんて……。どうしてそんなひどいことを言うの? かわいそうに……。この人きっと、嘘つき人間なんだわ”

 優子は、その若い医者を哀れな嘘つき人間に仕立て上げることで、ちぎれ落ちそうな自分の心を何とか結びつけておこうとした。 “早くスイッチを切ってしまわなければ……“ 若い医者が、全部話し終える前にそうしなければいけないと思ったが、優子はそのスイッチを見つけるどころか、指先ひとつ動かすことができなかった。

「じゃあ、私はこれで失礼します。お時間を取らせてしまってすみませんでした」

 ひとしきり話しが終わると、若い医者は優子の堪えていた涙に気づこうともしないで、そそくさと部屋を出て行った。たったひとり、始末に負えないほど広過ぎる部屋を与えられた優子は、その空間を埋めるすべが見つからず、うつむき、そして泣いた。

 この時の闇に埋もれそうな優子の孤独な心をいったい誰が救えたというのだろうか。

 “優子ちゃん、大丈夫?ケガはなかった?”

 “優子ちゃん、蜂はもういないから大丈夫だよ”

 “優子ちゃん、試験勉強がんばっているもんね!”

 “優子ちゃんは、かわいいと思うよ”

 “優子ちゃんはきっと、いいお嫁さんになれるね”

 今思えば、出会ってから今まで、亮介はいつもそうやって自分を見守ってくれていた。優子は、亮介と過ごしたわずかな時間の記憶を辿った。母親を捨てた身勝手な男だと初めは憎んだが、今は、自分の心を奪った、とても大切なかけがいのない人だと素直に思える。その亮介が不治の病に侵されている。信じたくなかった。

「亮介さんが死んでしまう……。あのお医者さん、そう言っていた。うそよ。そんなのうそよ。だってあの人、嘘つきだもの。ねえ、お婆さん、そんなのうそでしょ?」

 優子はそこにいるはずもないキン婆に問いかけた。“おばあさんに伝えなくちゃ” 一人で抱えるにはあまりにも重すぎる出来事をキン婆に伝えたい気持ちだけが先走った。優子はキン婆の待つ待合室へ戻ろうと部屋を出たが、来るときはほんの二、三分で着いたはずのこのカンファレンス・ルームから待合室へ戻るのに、どこをどう歩いたのか随分と長い時間がかかってしまった。途中、同じ病室の前を何度も通った気がするが、この時のことを優子は今も思い出すことができない。

 やっとの思いでキン婆のいる待合室まで戻ってきた優子は、部屋に入るなりキン婆に抱き着き泣き叫んだ。

「おばあさん! 亮介さんが、亮介さんが!」

 キン婆は優子のその様子に驚いて、食べていたパチンコの景品でもらったせんべいの袋を放り出した。

「どうした! 亮介に何かあったのか、優子! どうしたんだ!」

「亮介さんが……。亮介さんが……」

「亮介がどうしたんだ。優子、しっかりろ!」

 キン婆は自分にしがみつく優子をやっとの思いで引き離した。

「亮介がどうしたんだ。ほれ、泣いてちゃわかんないだろ?」

 キン婆は自分の首にかけていた手ぬぐいの端を使って優子の目じりから涙を拭きとった。優子は声を震わせ涙にむせながら、さっきあった出来事をキン婆に伝えた。その話を聞いて、さすがのキン婆も驚きを隠し切れなかった。

「そうか、亮介がそんなことに……」

「おばあさん、私どうしたらいいのかわからない……。わからないの。どうしよう、亮介さんが死んじゃうなんて……」

 優子はキン婆にしがみつくと、再び声を上げて泣いた。キン婆は、もう優子を引きはがすことをしないでしっかりと抱いてやった。

「優子、思いっきり泣け、今はそれでいい。思いっきり泣くがいい。そして、亮介が目を覚ました時、その時にはお前の笑った顔を見せてやれ。あの子にしてやれることはもう、それくらいしかない。だから、それまではお前の気の済むまで泣きなさい」

 優子にそう言ったキン婆の目からも涙がこぼれた。

  部屋の窓から、遠くの方にたくさん並んだ提灯の明かりがぼんやりと見えた。これから本格的な夏を迎え、いつもは静かなこの街も少しだけ賑やかになる。それは今も昔も変わらない。二十七年前の夏の夜にも同じように提灯の明かりが見えていた。

 ただ、一つだけ違いがあるとするならば、それは、今、亮介はこの街にいる。そのことだけは、あの時と違っていた。(つづく

 

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