「めぐり逢う理由」 (最終章 めぐり逢う理由)-3-

 やっと言えた。

 それは、消え入るような小さな声だったが、

 でも、しっかりと、はっきりと言えた。

 おそらく、……完璧だった。

 あれから、百年もの時が経ってしまったが……。

 「美雪……」

 美雪の囁いた呪文で魔法をかけられた現太は言葉を失っていた。

「現太さん、大好き!」

 美雪は現太の胸に飛び込んだ。美雪の言葉に答える代わりに、現太は美雪をしっかりと抱きしめた。時が止まったように、もしくは百年もの時間を巻き戻し終えるまで、二人は抱き合っていた。

 ―新吉さんの夢は何ですか?―

 百年前、多み子は新吉にそう尋ねた。その答えを聞かぬまま、多み子は亡くなった。

 あの時、多み子と新吉……二人の間は、金に目が眩んだ男たちによって無情にも引き裂かれた。

 私利私欲のために、誰かの幸せを、それ以上に人の命を奪うということは、人として絶対にしてはならないことである。

 それをした時、その者は既に人ではないのかも知れない。もう二度と、人としても畜生としても生まれ変わることのない、腐った魂の無用なごみに成り下がる。 

 己の犯した、その罪の深さを思い知るがいい。

 ―その人の温もりをしっかりと覚えておきなさい―

 過去と未来を渡り歩く、不思議な馬車使いの老人は多み子にそう言った。多み子は、生まれ変わってもう一度新吉とめぐり逢うために、新吉の温もりを自分の手のひらに刻み込んだ。

 そして今、多み子の手のひらに刻み込まれた新吉の温もりを、現太に抱きしめられた美雪の身体が感じ取っている。

 川に飛んできた翡翠色のカワセミが木の枝にとまった。じっくりと川の中の獲物を狙っている。まだ、狙っている。が、一瞬だった。川の水が跳ね上がった時、魔法が解けた現太が美雪に言葉をかけた。

「さあ、お嬢さん、どちらまで?」

 現太の胸に顔を埋めたまま美雪がそれに答える。

「ふふ、ふふふ。そうね。あなたと私が初めて出会ったあの場所、龍背大橋まで行ってくださいな」

「へい、承知……」

 そう言いながらも、現太は美雪を抱きしめたまま動こうとしない。ほんの僅か、現太の肩が揺れていた。

車屋さん? 出発はいつごろに?」

 不思議に思った美雪が現太に尋ねた。

「慌てなくてもいいさ。これからは……ずっと……一緒なんだから」

 現太が泣いている。美雪の身体を抱きしめた現太の記憶が百年の時を遡る。あの時、冷たくなった多み子の身体を何度も擦って温めようとした、新吉の手のひらの感触が現太の手の肌に蘇る。現太は美雪の体温を確かめるように、美雪の肩が折れそうなくらい力強くもう一度しっかりと美雪を抱きしめた。そして、美雪はその温もりに融かされていく自分の身体を現太に預けた。

「うん……」

 美雪が小さく頷くと、朱鷺色の夕日に照らされ、金色の涙がひと粒、美雪の頬を伝わり落ちた。

 

 龍の涙に例えられた、龍露飴には何か不思議な力……いわゆる魔力のようなものが備わっていたのだろうか。あの時、同じ袋の飴を食べた四人と一匹の犬が遥か遠い先の未来で再び出会った。しかし、それは単なる偶然だったに違いない。

 なぜなら、時も超え大切な人を想い続けること、それこそが、その人と再びめぐり逢う理由なのだから……。

 見つめ合う二人の横を、熊野川は今日も静かに流れていく。時も超え、ようやくめぐり逢えた多み子と新吉を見守るように……。

終わり

 

引用

「ゴンドラの唄」 吉井勇

「人を恋うる歌(妻をめとらば)」 与謝野鉄幹

「桂の木伝説」 雲洞庵

 

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「めぐり逢う理由」 (最終章 めぐり逢う理由)-2-

 美雪が海岸通りまでやって来ると、観光客相手の車屋姿がすっかり板についた現太が、今日は暇なのか、土手に寝転んで川の流れを見つめていた。

「現太さん」

 美雪の掛けたその声に現太が驚いたように振り返った。

「み、美雪? どうしてここに……」

「現太さん、車屋さんやっているって早苗さんに聞いたから、現太さんの車に乗せてもらおうと思って」

「い、いや、そうじゃなくって……ほ、ほれ、あれだ、その、銀行の息子の、婚約だか何だか……」

「私、嫌われちゃったみたい。婚約……破棄されちゃった」

「え? 会社は大丈夫なのか?」

「うん。どうしてなのかわからないけど、融資はしてもらえることになったの。だから、これからは母が社長として会社を立て直していくことになったの」

「そ、そうか。よ、よかったじゃねえか。あんなマザコン野郎と結婚しなくて済んで」

 美雪はやはり現太が何か絡んでいるのではないかと思った。そうでなければ、美雪も婚約破棄になる直前まで知らなかった、清太郎が実はマザコンだったことを現太が知るはずがない。

「うん。でも、どうしてなんだろうなぁ。不思議だなぁ」

 美雪はいたずらな目を現太に向けた。

「さ、さあな。俺は何も知らねえな」

「きっとまた、現太さんが魔法を使って助けてくれたんだわ」

「魔法? 何言ってんだ。俺は魔法なんて使ってねえぞ」

「ううん、いいの。何でもない」

「何だよ。気になるじゃねえか。それとも何か、俺が呪文でも唱えたって言うのか? アブラーカタブラーなーんてな」

 魔法の呪文と聞いて、封印されていたはずのげんちゃんの魔法の言葉が海馬の奥底から顔を出し、美雪は思わず下を向いた。

「あ、あれ? 何でお前、顔赤くなっての?」

「あ、赤くなんてないです!」

「いや、赤いぜ」

「そ、そんなことありません!」

「いや、赤いって。猿の尻みてぇに真っ赤だぞ」

「ば、ばか、知らない!」

 現太に背を向け、美雪は思わず両手で自分の顔を覆った。

「ははーん、おまえ、なんか知ってんだな。言ってみろよ、その魔法の呪文ってやつ」

「…………」

「ほら、恥ずかしがらずに言ってみろよ。それともあれか? それを聞いたら俺も魔法にかかっちまうのか? はははは」

「…………」

「何だよ。勿体付けるなよ。ほれ、ほれ」

 デリカシーのない現太の催促に、美雪の顔はますます赤くなっていく。現太の執拗さについに観念した美雪は、うつむいたまま、現太に耳を近づけるよう、揃えた指先だけで手招きした。

「おっ、なんだ、やっと教える気になったか」

 間抜け顔をした現太が美雪の口元に自分の耳を近づけた。

「どれどれ、何て言う呪文なんだ?」

美雪は手を添え、現太の耳元に小さな声で囁いた。

「*・*・*・*」

 現太の……時間が……。止まった。(つづく

 

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「めぐり逢う理由」 (最終章 めぐり逢う理由)-1-

めぐり逢う理由

 あの頃……。そう、美雪がまだ幼かった頃、美雪の住む町の外れに新しい橋が架けられた。それから二十年の歳月が過ぎ、美雪は誰もが羨む素敵な女性に成長し、橋にはその名に相応しい貫禄が付いた。

 龍背大橋……その橋にはおよそ四百年の歴史があった。四百年の間、橋は洪水で何度も流された。そして、その度に人の手によって再生されてきた。新しく架けられた橋は何度目の再生なのか、それを知る人はもう誰もいない。破壊と再生を繰り返し、橋は今も尚、そこに聳え立つ。

 百年前、橋は橋の歴史上初めて人の手によって破壊された。その時、不幸にも命を落とした少女がいた。少女にはとても大切な人がいた。橋の上で少女はその大切な人と初めて出会った。その人を想う時、胸が苦しくて、切なくて、でも、毎日がとても楽しくて、幸せで、それまで乾いていた街の景色が生き生きと色づいて見えた。

 それは、少女にとって生れてはじめての恋だった。

 “初恋は実らぬもの” などと、自分の経験でしか物を言わない、意地の悪い大人たちはそう言うのかも知れない。それでも、少女はその恋を実らせようと一生懸命にその人を愛した。実らぬ恋があることなど考えてもみなかった。

 “恋は盲目” 初恋が実らぬと言った大人たちは、そう言って命がけで貫こうとした少女の純愛を笑うのかも知れない。

 少女はただ、最後にその人に愛を伝えたかった。しかし、それは叶わなかった。少女の伝えようとした言葉は橋とともに流された。

 

「お嬢さま!」

 美雪からの帰郷の知らせを聞いて、駅に迎えに来た奈美が声を掛け走り寄って来た。

「奈美ちゃん! お久しぶりね」

「お嬢さま、ご無沙汰しております。旦那さまのご葬儀の時はお伺いすることができなくて、申し訳ございませんでした」

「いいのよ。奈美ちゃんは妊婦さんだったんですものね。今日、赤ちゃんはどうしたの?」

「主人に預けてきました」

「ママ、この人、誰?」

 奈美の後ろに隠れていた、奈美の長男の誠也が恥ずかしそうに顔を覗かせた。

「あら? もしかして、誠也くん?」

「ええ、ほら、誠也、お嬢さまにご挨拶なさい」

「こんにちは」

「こんにちは。偉いわね。誠也くん、ご挨拶できるのね。いくつになったの?」

「よっつだよ」

「へー、じゃあ、幼稚園ね」

「ええ、今年から幼稚園に通っています」

「もしかして、私と同じ幼稚園?」

「ええ、旦那様が推薦してくださいまして。分不相応ですがお嬢様と同じ幼稚園に行かせて頂いております」

「父が?」

「ええ、旦那様には生前より何かと気にかけて頂きました。本当に感謝しております」

「そうだったの」

「お嬢さま、ご自宅までお送り致します」

「あっ、奈美ちゃん、その前に私、その幼稚園に寄りたいの。ごめんなさいね。奈美ちゃん、いいかしら?」

「ええ、それは構いませんけれど……。うふ、ふふふ」

 奈美は、見た目はすっかり大人の女性になった美雪が、相変わらず自分のことを奈美ちゃんと呼ぶことに気が付いて、つい可笑しくなって笑った。

「奈美ちゃん、どうしたの? 何が可笑しいの?」

「だって、お嬢さま、私ももう来年は四十ですよ。子供も二人おります。いつまでも “奈美ちゃん” では。呼ばれた方が気恥ずかしくございます」

「そうかしら? じゃあ、何と呼べばいいの? 吉岡さん……とか、奈美さん? そんな風に呼べばいい?」

「そうですね。“ちゃん“ でなければ……」

「じゃあ、奈美さん……何か、ピンとこないわね。幼稚園までお願いします」

「はい、お嬢さま」

 美雪は奈美の運転する車で昔懐かしい幼稚園にやって来た。

「奈美ちゃん……じゃなかった、奈美さん、誠也くんここでちょっと待っててね」

 美雪はそう言い残すと、幼稚園の裏庭に向かった。そこには、み子の祠があった。

「み子ちゃん、二十年ぶりね。これずっと持っていてくれたのね」

 美雪は祠の中からティアラを取り出した。街のおもちゃ屋で買ったティアラは、すでにあの時の輝きを失っていた。美雪は溜まった埃を手で払うと祠の中にそれを戻した。

「み子ちゃん、私ね、げんちゃんに会いに来たの。覚えているでしょ? あの頃の私の憧れの王子さま……。げんちゃん王子よ」

 美雪は祠に向かって手を合わせた。

「でもね、本当はね、現太さんに会うべきかどうか、私まだ迷っているの。勇気を出して会いに来たんだけれど、現太さん、きっと私を軽蔑しているわよね。だって、私は現太さんではなく、清太郎さんを選んで婚約までしたのよ。現太さんのことが好きだったけれど、会社のためにそうしたの。そんな私を現太さんは許してくれるかしら……」

 美雪は答えるはずもない、祠の中のみ子に向かって話しかけた。子供の頃、み子には何でも話すことができた。うれしかったこと、悲しかったこと、げんちゃんのこと、大好きなお父さまのこと、何でも話せた。当然ながら、み子は答えてくれなかったが、それでも、あの頃、み子とは不思議と心が通じ合っていたように思う。

「あら? み子ちゃん、あなたの名前……」

 美雪は祠の中の『多み子』と書かれた木札を手に取った。

「み子ちゃん、あなたの名前、本当は多み子さんって言うのね。ごめんなさい。私ずっとみ子ちゃんだと思っていたわ」

 そう言いながら、美雪が何気なくその木札を裏返して見ると、そこには力強い、それでいてどこかもの悲しげな文字が書かれていた。

 多み子、お前に逢いたい

 それは百年前、多み子を失い悲しみに打ちひしがれた新吉が、多み子を想って書いたものだった。あの時、助けてやれなかった悔しさや、伝えたかった想いが込められた、飾り気のない短い言葉だが、誰を恨むでもない、ただ逢いたい、もう一度だけお前に逢いたい、新吉の精いっぱいの気持ちが伝わって来る言葉だった。

 それを見た美雪は言葉を無くしていた。木札を持つ自分の手が震えているのがわかった。そして、木札の文字を見つめる目から自然と涙がこぼれ落ちた。何故か、子供の頃に見た夢を思い出した。川で溺れる自分に手を差し伸べてくれる人がいた。大きな声でその人の名前を何度も叫んだ。その人に何かを伝えなくてはいけなかった。その人は自分にとって誰よりも大切な人だった。“お前に逢いたい” それは、その人の言葉だと美雪は思った。

「私、伝えなきゃ。あの時、伝えられなかったこと。あの人に伝えなくちゃ。そうよね。やっとめぐり逢えたんだもの。み子ちゃん、見守っていてね。私、勇気を出して伝えるわ」

 美雪は祠に向かってもう一度手を合わせた。

 幼稚園の門までやって来ると、そこに奈美が立っていた。

「行くのですね? あの人のもとへ」

「ええ」

 奈美は、初めからそれが分かっていたようにやさしく微笑んだ。

「きちんと、お気持ちを伝えられますか? 練習致しましょうか?」

「何の練習?」

「“大好きです” 言えますか? その人に。お嬢さまは恋愛には奥手いらっしゃいますから。心配で……」

「だ、大丈夫よ。ちゃんと言えるわよ。多分……」

「今度は、きちんとご自分のお気持ちを伝えてくださいね」

「今度は?」

「いえ、何でもありません。がんばって」

 奈美はようやく自分の役目を果たし終えたような、そんな安堵した顔を見せた。

「奈美ちゃん?」

「はい」

「やっぱり、これからもずっと奈美ちゃんって呼んでいいでしょ?だって、奈美ちゃんは私にとってずっと奈美ちゃんなんだもの」

 美雪の願いに答える代わりに、奈美は優しく微笑んで見せた。

「よかった」

 美雪は何か吹っ切れたような笑顔を見せ、現太のもとへと歩き出した。奈美は美雪の髪に飾られた自分のものと同じ玉簪を見つめながらその後ろ姿を見送った。(つづく

 

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「めぐり逢う理由」 (第六章 ばいばいげんちゃん)-3-

 数日後、佳恵のもとに帝都銀行の梶原常務から、息子の清太郎と美雪の婚約を解消したいとの申し出があった。佳恵は美雪が望まない結婚をしなくて済んで内心ほっとしたが、同時に帝都銀行からの融資のことが頭をよぎった。しかし、何故か梶原はこれまで通り五葉電機への融資を行うと言ってきた。

 美雪との婚約解消を言い出したのは清太郎本人だった。清太郎の両親はその理由を問い詰めたが、清太郎は決して本当の理由を言わなかった。婚約を解消した後、次々と発覚した清太郎の不貞がその理由なのだと両親は嘆いた。そして、その不貞を表沙汰にしたくなかった梶原は、五葉電機への融資を継続することで事を穏便に納めようとしたらしい。

 

 美雪の婚約解消の噂を聞いて、現太が故郷の村に帰ったことを伝えるため、早苗は美雪に会いに五葉電機を訪れた。

「美雪さん、現ちゃんは今、私たちが生まれた故郷の村にいるわ」

「そう」

「そうって……会いたくないの? 現ちゃんに。行ってあげて。現ちゃんに会いに」

「私は現太さんに会えないわ。事情はどうであれ、私は、一度は清太郎さんを選んだんですもの。婚約を破棄されたからと言って、今さら現太さんの元へは戻れないわ」

「何言ってるの。会社だって大丈夫なんでしょ? 融資はされるって新聞にも書いてあったわ」

「ええ、それは大丈夫なんだけど。でも……」

「でもじゃないわよ! 現ちゃんだってきっと美雪さんのことを待っているわ。じゃなきゃ、わざわざ美雪さんの婚約者に会いに行ったりしないわ」

「現太さん、清太郎さんと会ったの?」

「そうよ。でも、勘違いしないで。現ちゃんは婚約をダメにしようとして行ったんじゃないのよ。美雪さんを幸せにしてくれって、相手の人にそう言いに行ったのよ。現ちゃんはいつだって、美雪さんが幸せになることだけを考えているのよ。だから……」

「でも、現太さんには、現太さんの生き方が……」

「馬鹿! 何格好つけてんのよ。命がけで守ろうとした人なんでしょ! それほど大切な人なんでしょ。だったら、もう誰にも気兼ねすることないじゃない。何も考えず、現ちゃんの胸に飛び込めばいいじゃない。待ってたんでしょ? 現ちゃんのこと、ずっとずっと待ってたんでしょ?」

 五葉電機の受付のある一階ロビーに早苗の声が響き渡った。

「早苗さん……」

「私は信じてるわ。美雪さんと現ちゃんが結ばれることを私は信じてる。そうでなくちゃ、私も強く生きて行けないじゃない!」

 そう叫ぶと、早苗は入口の自動ドアを開けて出て行ってしまった。

「美雪」

 いつからそこにいたのか、佳恵が美雪に近づいて来て声を掛けた。

「お母さま……」

「ふふ、随分とおせっかいなお友達ね」

佳恵は微笑みながらそう言った。

「でもね、美雪、恋と言うのわね、周りの人のほんの少しのおせっかいと、本人どうしのたくさんの勇気が必要なの。分かる? あなたは西園寺家の三代目としての役目を十分果たしたわ。美雪、幸せになりなさい。誰のためでもなく、今度はあなた自身のために勇気を出して幸せになりなさい」

「お母さま……」

「心配しなくても大丈夫よ。ちょっと頼りないけど、会社のことは青山さんと私に任せなさい」

「お母さま、お父さまが亡くなる前におっしゃっていた……」

「分かっているわ。社員旅行を会社の行事として復活させることね? 考えておくわ。私も思い出したの。幸太郎さんと初めてお話したのが、入社して初めて行った会社の社員旅行だったの。熱海に向かう列車の中で偶然隣の席になって……。いいこともあるのね。昭和の古い風習にも」

「ふふ。そうよ、お母さま。古き良き時代という言葉もあるわ」

 その後、五葉電機には、年に一度の社員旅行と、シーサイドのバーベキュー施設を貸し切っての夏祭りが復活した。

 幸太郎の願った、古き良き会社の姿が五葉電機に戻りつつあった。(つづく

 

~目次~ 第六章 ばいばいげんちゃん 1  2  3

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「めぐり逢う理由」 (第六章 ばいばいげんちゃん)-2-

 夜、村上が言っていた通り、品川のウエストリッチホテルの最上階に美雪と佳恵、それに帝都銀行常務の梶原夫妻と一人息子の清太郎の姿があった。

「やあやあ、佳恵さん、それに美雪さん。今日の結納式は実によかった。これで二人は晴れて婚約ということだな。はっはっは」

 梶原は上機嫌だった。

「さあ、後はゆっくり食事を楽しみましょう。そして、若い二人の未来を祝福しましょう」

 梶原常務の息子の清太郎はいわゆるプレイボーイで、美雪との結婚を決めてからは、それまで付き合っていた複数の女との関係を断ち切るための後始末に追われていた。結婚式を迎えるまでには、何とかすべてを清算しなければならなかった。

「美雪さん、ぼくは世界一幸せな男です。あなたのような素敵な女性とめぐり会えて」

 後始末が終わっていない不安を自分の顔には微塵も出さず、清太郎は満面の笑みを作って乾杯の挨拶代わりにそう言った。

「私は清太郎さんが思ってくださっているような、そんな人間ではありません」

「美雪さん、そんな謙遜して。あなたの素晴らしい経歴は全部知っていますよ。あの名門のハーバード大学を優秀な成績で……」

「お父さん、美雪さんが困っているよ。美雪さんはそういうことを自慢したりしないんだよ」

「お、そうか。すまん、すまん。お前は美雪さんのそういう控えめなところが好きなんだよな?」

「お、お父さん!」

「おっ、こりゃいかん。年寄りは少し黙るか」

 そう言いながら、梶原はコップに注がれた高級ワインを一気に飲み干した。

 梶原家の一方的な会話で食事が半ばを過ぎた頃、清太郎が席を立った。「少し黙るか」と言った割には、相変わらず上機嫌にしゃべり続ける父親に気兼ねしてタイミングを失っていたが、清太郎はようやく我慢していたトイレに立つことが出来た。

 両家の食事会のために貸し切られた部屋を出て、トイレに向かう清太郎の後ろを見知らぬ男がついてきた。 

 ―「お前が美雪の婚約者か?」―

「だ、誰だ? お前」

「誰だっていいさ」

 現太だった。そこにはスーツ姿の現太が立っていた。

「ここは、お前のようなチンピラが入れるような場所じゃないぞ!」

 現太を見た、清太郎の表現は正しかったのかも知れない。ここへ来る途中、現太とすれ違ったホテルにいた客の女性が見惚れるほど、現太のスーツ姿は決まっていたが、どうひいき目に見ても堅気の人間には見えなかった。

「さては、おまえ美雪さんのストーカーだな」

 何に怯えているのか、清太郎はチンピラ風情では飽き足らず、今度は現太を美雪のストーカーに仕立て上げた。

「美雪さんは美人だからな、無理もない。あの美貌で頭もよく、一部上場企業の次期社長だ。諦めろよ。お前みたいな人生の負け組とは、所詮住む世界が違うんだよ。同じ時代に生きていると言うだけで、俺や美雪さんが乗っているレールとお前の乗っているレールは決して交わることはないんだよ。とっとと帰れ!」

 現太の着ていたスーツが安物か高級なものかを見抜く力は、ブランド好きな清太郎には当然ながら備わっていた。清太郎は勝ち誇った顔で、そんな蔑んだ言葉を現太に投げ付けた。

「言いたいことはそれだけか?」

「何だと?」

「確かに俺とお前とでは住む世界が違うんだろう。あいつが……美雪が幸せになれるなら、それが運命だと言うのなら相手はお前でもいいさ。でもな、もしも美雪を泣かすようなことしてみろ。我慢強いあいつが人知れず涙を流さなきゃならないような、そんな真似あいつにさせてみろ。そんときゃ、お前がどこにいても、俺は必ずお前を探し出してお前のこのキンタマ、握り潰してやるからな。いいな! 覚えとけ!」

 現太は清太郎の股間を握りそのまま片手で体ごと持ち上げた。一瞬、清太郎の両足が床から浮いたようにも見えた。

「だ、誰なんだ、お前。ま、まさか、あの時の……」

 清太郎が震える声で言った。

「あの時のかどうかは知らねえが、俺はげん太だ。片山現太だ!」

 清太郎の顔からみるみるうちに血の気が引いていった。 

 ―フラッシュバック―

 過去の記憶……それも大体においては恐怖の記憶が蘇ることを指す。清太郎の脳の中に幼い頃に埋め込まれた、恐怖という名の地雷のスイッチが押された。地雷を埋めたのも、今そのスイッチを押したのも共に現太だった。

 美雪が四歳の時、美雪の通う幼稚園に美雪をいじめるいじめっ子がいた。ある日、そのいじめっ子はげんちゃん王子の魔法によって罰を与えられた。体が石になったように固まり、美雪の目の前でおもらしをしてしまうほどの厳罰だった。あれから二十年、封印されていた清太郎の記憶が海馬の奥底から顔を出した。

 現太が清太郎の股間から手を離すと、まるで排水口の栓が抜かれたように清太郎の股間から小便が溢れだした。

「いいな? 俺はずっとお前を見ているからな」

 現太がその場を立ち去って間もなく、トイレからなかなか戻ってこない息子を心配して清太郎の母親がやって来た。母親はその場に座り込んで上も下も半泣き状態の息子を見て叫んだ。

「キャー! 清ちゃん、清ちゃん、誰か! 誰か来て!」

 母親の叫び声を背中に聞きながら現太が呟いた。

「けっ、胸くそ悪りい。あのマザコン野郎が」

 慌てて現場に向かうホテルの従業員たちは、誰もその場をひとり立ち去る現太に気付く者はいなかった。(つづく

 

~目次~ 第六章 ばいばいげんちゃん 1  2  3

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「めぐり逢う理由」 (第六章 ばいばいげんちゃん)-1-

ばいばいげんちゃん

 美雪が婚約した。

 そんな社内の噂話を真っ先に耳にしたのは、美雪に対して偏った愛情をずっと持ち続けていた経営企画室室長の青山だった。

「社長、美雪さんが婚約したっていうのは本当ですか!」

「いえ、婚約をしたわけではありません」

「じゃあ、デマなんですね。単なる噂話なんですね」

「ええ、ただ……」

 青山を美雪の結婚相手に考えていた佳恵は、噂話に振り回されてただおろおろするばかりの目の前の男に同情した。

「ただ? ただ何なんです?」

「ただ、お付き合いをさせて頂いている方がいます」

「えっ? 誰です、それは誰なんですか?」

「帝都銀行の梶原常務のご子息。清太郎(きよたろう)さんです」

「…………」

 佳恵に引導を渡された青山は、言葉を失いその場に崩れ落ちた。

 

「お母さま、私、今回の梶原常務のお話、お受けしようと思います」

「美雪、あなたどこからその話を?」

 帝都銀行の梶原常務との会食以来、ずっと何かを悩み続けている佳恵の姿を不審に思い、美雪はこのところ佳恵と行動を一緒にしている村上を問い詰めてその理由を聞き出した。もちろん、村上は佳恵に口止めされていたが、美雪の執念に最後には折れた。

「美雪、いいのよ。会社のためにあなたが犠牲になることはないわ。これは私の問題です。あなたは自分の幸せを考えなさい」

「いいえ、お母さま。私は五葉電機をお創りになったお爺さまの孫よ。西園寺家の三代目です。私の幸せは西園寺家を、五葉電機を守ることです。そして、それが五葉電機で働く従業員の方の幸せを守ることに繋がるのなら、私は喜んでこのお話をお受けいたします」

「美雪、あなた、そんなことを考えていたの? 本当にそれでいいの? 他に好きな人とかはいないの?」

「いません。今は、もういません。以前に想いを寄せた方はいました。でも、その方とは今生では添えないものと諦めました。その代わり、生まれ変わってまたいつかお会いすることを約束しました」

「ごめんね。美雪……うっ、うう」

「お母さま。泣かないでください。私は幸せを諦めたわけではありません。今までお父さまやお母さまに甘えてばかりで、私の方こそごめんなさい。これからは、この会社をりっぱに経営していくことが私の幸せです」

「美雪……美雪……うっ、うう」

 佳恵は美雪にすがるようにして泣いた。あの強くて厳しかった母が、今自分の胸で子供のように泣きじゃくっている。美雪は母を抱きしめ、この母のためにも会社を立て直す決意を新たにしていた。

 

 青山が聞いた単なる噂話が本当のことになろうとしていた時、東京を離れる日を明日に控え、現太は早苗の手も借りて荷造りに追われていた。

「なあに? その絵。現ちゃん自分で描いたの?」

 そう言い残して、早苗は玄関先に荷物を運んで行った。

「いや、もらったんだ。昔……」

 現太は古びた画用紙に描かれた一枚の絵を見ていた。その絵の右上には、幼い子供が書いたと思われる字で『げんちゃんおうじ』と書かれていた。

 美雪の描いた絵だった。穴の開いたランニングシャツを着た、坊主頭のげんちゃんの絵だった。

「ばいばい……か。今度こそ本当に“ばいばい”だな」

 現太は絵に描かれた文字を見て呟いた。

「現ちゃーん、この荷物どこへ置けばいい?」

 玄関の方から早苗の声が聞こえた。

「ああ、今そっちに行くよ」

 そう言うと、現太は見ていた絵をくるくるっと手で丸め、箱の中に詰め込んだ。

「ピーンポーン」

 現太が玄関先まで行くと外で誰かが呼び鈴を鳴らした。早苗が覗き穴から外を見ると、そこには中年の男が立っていた。男は自分の背広の内ポケットの厚みを確認しながら、落ち着かない様子で中の住人が出てくるのを待っていた。

「あの人、確か……」

 そう言って、早苗は急いでドアを開けた。

「朝早く申し訳ございません」

 早苗がドアを開けると同時に男は頭を下げて言った。

「あなた、確か……美雪さんのところの運転手さんよね?」

「はい」

 その男は村上だった。

「何かあったんですか?」

 現太は美雪の身に何かあったのかと思い村上に向かって言った。

「現太さんにお渡ししたいものがございます」

「俺に?」

「はい」

 村上は胸の内ポケットから一通の封筒を取り出し、それを現太に手渡した。

「お嬢さまからです」

「美雪から?」

「現太さん、お嬢さまは幸せになれるのでしょうか? 私にはそうは思えません。私は……私はあなた以外の方とお嬢さまが結ばれても、お嬢さまが幸せになれるとは思えません!」

「げ、現ちゃん」

 思い詰めたように肩を震わせ拳を握りしめる村上の顔を見て、早苗が現太の持つ手紙を指さした。

 現太は急いで手紙の封を切った。

 

 げんちゃんへ

 子供みたいな書き出しでごめんなさい。でも、私にとって現太さんは、昔、幼稚園で初めて会った、あの時のランニングシャツ姿のげんちゃん、そのままなのです。遠い昔のことなので、現太さんはもう忘れてしまったのかもしれないけれど、私はまだ四歳だったあの頃のことを今でもはっきりと覚えています。げんちゃんがおばさんと二人で一生懸命に机を運んでいたこと、私をいじめっ子から守ってくれたこと、一緒にクレヨンを拾ってくれたこと、いじめっ子から黄土色のクレヨンを取り返してくれたこと、泣き虫だった私の涙をハンカチで優しく拭いてくれたこと。

 それまでは、幼稚園の帰りの時間になるといじめっ子と二人になってしまうのがとても嫌で、毎日が寂しく憂鬱でした。でも、げんちゃんが幼稚園に来るようになってからは、その帰りの時間が楽しみになりました。“今日もげんちゃんに会える“そう思うと自然と勇気が湧いてきて、私は元気になることができました。

 私を元気にしてくれる優しいげんちゃんは、あの頃の私の王子様、げんちゃん王子だったのです。こんなことを書くと、きっとあなたは笑うのでしょうけれど、げんちゃんは魔法が使えるんだとあの頃の私は真剣にそう思っていたのです。

  一年前、街であなたと偶然再会したあの日から今日まで、とても楽しい毎日でした。子供たちの野球の試合を夢中になって応援したり、一緒にお昼を食べたり、大人になっても泣き虫な私は、げんちゃん王子と今度は子供たちからも、また勇気と元気をもらったような気がしていました。もう一度げんちゃんに会えるなんて思ってもみなかったけれど、憧れや思い出などではなく、心のどこかで私はずっとあなたを探し続けていたのかも知れません。

 近頃、昔あなたに背負われた時のことを時々夢に見ます。でも、不思議なの。あれは確かに私の通う幼稚園での出来事だったのに、あなたといる場所はいつも橋の上なのです。あなたの優しいおばさんが虹橋と呼んでいたあの橋の上で、私はあなたの背中であなたの温もりを感じながらとても幸せな気持ちに包まれているのです。

 会社のために結婚するなんて、何事にもまっすぐな心で向き合う現太さんは、きっと私のことを軽蔑するでしょう。でも、私は母が悲しむ姿をただ黙って見ていることができませんでした。これは、私の生まれ持った運命なのだと今は自分の心にそう言い聞かせています。

 もう二度とお会いすることはないと思います。だから……

 だから、せめて最後にあなたの魔法で私を四歳のあの頃に戻らせて。

 げんちゃん、ありがとう。

 ばいばい。

 

「美雪……。どこです、美雪はどこにいるんですか?」

 手紙を読み終わった現太は、現太のその言葉を待っていた村上に向かって言った。

「今夜、品川のウエストリッチホテルでお嬢様とお相手の方との結納が行われます」

「品川のウエストリッチホテルですね?」

「行くのね? 現ちゃん」

「勘違いするな。俺は美雪を奪い返しに行くわけじゃねえ」

「じゃあ、どうするの? 美雪さん、好きでもない相手と結婚しちゃうのよ」

「それはあいつが決めたことだ。あいつが、悩んで決めたことだ。それを俺がとやかく言うつもりはねえ。ただ、あいつには幸せになってもらわなきゃ困るんだ。あいつは絶対に幸せにならないと駄目なんだ!」

 早苗には、すべてがもう手遅れであるように思えた。現太は何をするつもりなのだろうか。(つづく

 

~目次~ 第六章 ばいばいげんちゃん 1  2  3

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「めぐり逢う理由」 (第五章 別れの予感)-4-

 それから数日が過ぎて、例年より少し早く七月の初めに今年の梅雨は明けた。会社を辞めた現太は、子供の頃に住んだ叔母の家を借りることになり、いよいよ東京を離れることになった。

 現太が東京を離れることになり、どうしても美雪と現太を結び付けたいと思っていた早苗は最後の賭けに出た。毎年この時期に行われる下町の夏祭りの夜、現太と美雪を会わせようと考えた。

 早苗の考えた筋書きはこうだ。

 シゲが早苗を夏祭りに誘ったが、早苗が現太と一緒じゃなければ行かないと言っているので、シゲが現太に一緒にきてくれと頼む。大勢の人混みの中にわざわざ疲れに行くようなもんだと、いつもの現太なら祭りに行くことを渋るのだろうが、友達思いで妹思いな現太は、東京で二人にしてやれる最後のことだときっと首を縦に振るに違いない。しかし、待ち合わせの場所にシゲと早苗はやって来ない。そこにやってくるのは、早苗に同じような理由で祭りに誘われた美雪である。

 早苗は美雪が来てくれるか少し心配だった。父親を亡くして以来、美雪はあえて現太を避けているように、早苗にはそう思えたからだ。しかし、思い切って美雪を誘ってみると、意外にも美雪は快く承諾してくれた。だが、それが返って、早苗の不安を煽った。「現太が東京を離れてしまう」喉元まで出掛かったその言葉を早苗は結局、美雪には伝えなかった。それを伝えるかどうかは現太が決めることだと思った。

 

 果たして、その日はやって来た。

 シゲと早苗が来ていると思い込んで待ち合わせの場所にやって来た現太は、どこで借りて来たのか浴衣姿に下駄を履いていた。

「こんばんは。現太さん」

「美雪……どうしてここに」

「早苗さんが誘ってくれたの。シゲさんもいらっしゃるって」

 現太は早苗とシゲが仕組んだ安物芝居にまんまと騙されたことに気が付いた。

「まだかしら? 二人は一緒に来るのかなぁ」

 現太は覚悟を決めた。きっと早苗が仕組んだことなんだろうが、美雪と二人で過ごせる最初で最後の時間だ。

『巡幸例祭』遠く熊野から分かれたこの神社の祭りは、東京の下町の人々からそんな風に呼ばれていた。自分は美雪に何もしてやることができない。せめて最後に、美雪に幸せが巡りくるよう祈りを捧げようと思った。

「あいつらのことは放っておいて、祭り見に行くか?」

「いいの?」

「ああ」

「ふふふ、現太さん、その浴衣姿ステキよ」

「ばか、からかうなよ。早苗のやつが、祭りに行くのにGパンじゃだめだってうるせえからよ」

「そうよ。せっかくのお祭りだもん。私はどうかしら。おかしくないかしら?」

「う、うん、まあまあだな」

「ふふ、うれしい。現太んさんの“まあまあ”は誉め言葉だものね」

「まっ、そういうことだ。それよりその髪飾り……」

 現太は美雪のしていた髪飾りを見て言った。

「これ? すてきでしょ? お友達からの借り物なんだけどね」

美雪がしていた髪飾りは、美雪が子供の頃にお気に入りのティアラと交換した、み子の祠にあった髪飾りだった。

「これがどうかしたの?」

「どこかで見たことがあるような気がして……い、いや、きっと、気のせいだ」

「これね、『麝香豌豆金蒔絵(じゃこうえんどうきんまきえ)飾り』って言うんですって」

「じゃ、じゃこうえんど?」

「麝香豌豆金蒔絵飾り……よ。麝香豌豆ってスイートピーのことよ。現太さんが私のお見舞いに持って来てくれた、あのお花のことよ。私、あの時うれしかったなぁ。現太さんにお花もらえて」

「そ、そう言えばそんなこともあったな。もう忘れちまった」

「私は忘れないわ。だってとってもうれしかったんですもの」

「ほ、ほれ、もう行こうぜ。混んじまうぞ」

 現太は照れくさそうに話しを逸らせた。

「ふふ、ええ、じゃあ行きましょうか。まずは神社にお参りね」

 二人は神社に向かって歩き出した。普段、ただでさえでかい現太は、下駄を履いてますます目立った。しかし、髪を上げ、浴衣姿の美雪はそれ以上に目立っていた。並んで歩く二人を皆が振り返った。

「ここに並ぶのね」

 美雪と現太は参拝の列に並んだ。拝殿の中には白装束に身を固め、首から大きな玉の数珠を掛けた老婆が、背中を向け体を揺らし何やら怪しげな祈祷を行っている。美雪たちの順番がきて二人がそれぞれに賽銭を投げ入れると、老婆の激しい動きがぴたりと止まってしまった。

「あれ? 婆さん止まっちまったぜ。賽銭が少なかったのかな?」

「げ、現太さん。聞こえるわよ」

「美雪、お前いくら入れた?」

「百円よ。現太さんは?」

「二十円……少ねえか?」

「そんなことないと思うけど……」

「しょうがねえ。少し足すか」

 そう言って現太が百円玉を投げ込むと、止まっていた老婆がこちらを振り返った。

「ほらな、やっぱり足りなかったんだよ。銭の音で金額がわかんのかな。業突くな婆さんだなぁ」

「げ、現太さん」

「喝‼」

 老婆が大麻(おおぬさ)を振り下ろした。

「な、何だよ。急に」

 老婆がつかつかと美雪たちに歩み寄ってきた。

「失礼なことを言ってごめんなさい」

 美雪は咄嗟に老婆に謝った。老婆は現太に一瞥を投げると、美雪を見て叫んだ。

「誠世院清雪美優童女(せいぜいんせいせつびゆうどうじょ)!」

「は、はい」

 美雪は思わず返事を返した。

「ようめぐり逢うた。わしの言うた通りじゃろ? あの橋が虹橋と呼ばれる時代にお前たち二人はめぐり逢うた。しかしこれからじゃ、これからが大事じゃ。信じるんじゃ。勇気を持って信じるんじゃ」

 それだけ言うと、老婆は再び背を向けて祈祷を始めた。

「何なんだよ。あの婆さん。何で、お前返事してんだよ」

「分からないけど。何だか自分の名前を呼ばれたような気がして」

「はあ? 何だそりゃ」

 二礼三拍手、奇妙な老婆の背中に向けて美雪と現太は揃って手を合わせ頭を下げた。そして、後ろの列に押し出されるようにその場を離れた。二人は、祭りの人混みの中を並んで歩き、踊りを見たり、山車が町を練り歩く姿を見たりして下町の祭りを楽しんだ。

「あっ、現太さん! あれ、金魚すくい。それに、あれ何て言ったかしら? 小さい風船にお水が入ってる、えーと……」

「水ヨーヨーか?」

「ああ、ヨーヨー、うん、そうそう、ヨーヨーって言ったわね」

「お前みたいなお嬢さまがよくそんなもの知ってんだな」

「昔ね、アメリカに引っ越す少し前にね、奈美ちゃんとプーさんが近所のお祭りに連れて行ってくれたの。私の母は厳しい人なので、私がそういうお祭りに行くことを絶対に許してくれなかったわ」

「だろうな」

 現太は、子供の頃美雪を迎えに来ていた怖そうな美雪の母親の顔を思い浮かべて言った。

「でもね、二人が何とか母を説得してくれて、一度だけお祭りに連れて行ってもらったの。楽しかったなぁ。金魚すくいも、ヨーヨーもやったわ。全然取れなかったけどね。それでも、金魚二匹とヨーヨーを一つ、お店のおじさんがくれたの。怖そうな顔したおじさんだったけど、本当はやさしいのね」

「子供にはやさしいのさ」

「ふふふ、そうなの? そしたら、奈美ちゃんがどこからか飴を買ってきてね。丸くてきれいな色のとっても美味しい飴だったわ。それを三人で食べて、母にもお土産にあげたんだけど食べてくれたのかなぁ……きっと、誰かにあげてしまったかも知れないわね。現太さんにもあげたかったなぁ。とっても美味しい飴だったのよ」

「そ、そうか? それは残念だったな」

「ほんとに……」

 美雪は本当に残念そうな顔をしていた。それから二人はしばらく歩いて、人の喧騒から離れ祭り会場が見渡せる橋の上に来ていた。故郷の龍背大橋とは違い、東京の橋は機能的な、ただ右から左に移動することだけが目的の殺風景なものだった。

 二人は橋の上に並んで立ち、遠くに見える祭りの人波を見ていた。

「ねぇ、現太さん?」

「ん?」

「もしも……もしもよ、私と現太さんが生まれ変わったとしたら、現太さんはまた私を見つけてくれる?」

「何だよ、急に」

「あのたくさんの人の中から私を見つけ出してくれる?」

 美雪の見つめる先には、どこから溢れ出てくるのか、たくさんの人間がうごめいていた。その先には海へと続く河口が見えている。人々の騒々しさとは対照的に川がゆっくりと海に流れ込んでいた。

「ああ、生まれ変わるなんてことがあんのかどうか知らねえが、そん時は見つけてやるさ」

「本当に?」

「ああ、本当だとも」

「…………」

「どうした? 美雪?」

「ううん、何でもない……何でもないわ」

 美雪は目からこぼれ落ちそうになった涙を指で拭った。

 ―ドーン、パーン、パチパチパチ―

「あっ! 花火。現太さん、花火よ!」

 空に打ち上がった花火を美雪が指さした。

「きれいね」

 夜空を見上げた美雪の目に、開いた花火の光が滲んで映っていた。

空へ、海へ、花火が次々と打ち上がる。

 ―ヒュー、ドーン、パーン―

 ―ドーン、パーン、パチパチパチ―

「日本の花火って、きれいなのね」

「そうか? 俺は日本のしか見たことねえからな」

「きれいよ。とってもきれい。私、忘れないわ。現太さんと見た、この花火……忘れない。絶対に忘れないわ……」

「美雪、お前……」

 ―ドーン、パーン、パーン、パーン―

 夏の終わりを告げる最後の花火が海上に三つの扇を広げた。それを見た美雪と現太は、それぞれにあの龍背大橋を思い浮かべていた。

やっとめぐり逢えた。しかし、二人が添い遂げられるのは、今生ではなかった。

 華やかな祭りの陰でそれだけが悲しかった。(つづく

 

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