「めぐり逢う理由」 (第五章 別れの予感)-3-

「現ちゃん、美雪さんに会ってあげたら? 美雪さんお父さまを亡くしてきっと悲しんでいるわ。会って励ましてあげなよ」

 いつもの日曜日のように、子供たちの野球の練習に行こうと玄関で靴ひもを結んでいた現太にみゆきが後ろから声を掛けた。

 美雪が入院している時、美雪の具合が気になりこっそり見舞いに行ったはずが、シゲとみゆきに冷やかされ、逆に美雪を怒鳴りつけてしまったあの日以来、現太は美雪に会っていなかった。いや、一度だけお互いの姿を確認していたが、それはやはり会ったということにはならないのだろう。

社葬として行われた幸太郎の葬儀の際、半田製作所を代表して社長の半田以下、数名の役員が参列した。その中に現太の姿があった。

半田は幸太郎の意を汲んで現太には詳しい話をしなかった。

「現太、お前も来い」

 他の役員を差し置いて自分が葬儀に参列することに僅かながらの違和感を覚えた現太だったが、現太にしては珍しく半田の言いつけに素直に従った。大勢の弔問客に紛れて現太は美雪の姿を目で探していた。そして、葬儀を取り仕切る、会社の総務の人間の後ろに控える美雪の姿を見つけた。美雪は涙ひとつ見せず気丈に振舞っていた。その横で憔悴しきった様子の佳恵の方が、今にも倒れてしまいそうでそちらの方が心配された。

 現太が献花した時、美雪は遠くから深々と頭を下げた。その時の美雪の落とした涙に気づいた者は誰もいなかった。

「社長が亡くなって、羽振りの良かった五葉さんもこれから大変になるね。栄枯盛衰、大企業の火も今や風前の灯火だね。」

 弔問客の間からは、そんな心無い声が聞こえてきた。

「五葉電機は厳しいのか?」

 葬儀の帰り道、現太が半田に尋ねた。

「まあ、かなり厳しくなるだろうな。佳恵さん一人ではどうにもな」

「そうか……」

 現太は五葉電機を心配したわけではなかった。それを背負っている美雪を案じてそう尋ねたのだった。

 

「げんちゃん、ねえ、会ってあげなってば」

 靴ひもを結ぶ手が止まっていた現太にみゆきがもう一度言った。

「俺なんかに何ができるっていうんだ。あいつは五葉電機の三代目だ。今は会社を立て直すことに必死なはずだ。俺にできることなんか何もねえよ」

「そんなことないわ。現ちゃんが傍にいてあげるだけで、美雪さんはきっと心強いと思うわ」

「分かったようなこと言うな! あいつは、あいつの世界で幸せになるのが一番なんだ。俺なんかと関わらない方がいいんだ!」

「現ちゃん……」

 現太は苛立っていた。何に対して苛立っているのか、それは現太自身にも分からなかった。恐らく、自分の不甲斐なさに苛立っていたのだろう。

 無謀とはいえ、自分を助けるために女の美雪が命がけで工場に飛び込んできた。そして、体にメスを入れなければならないような傷まで負った。ほんの短い間、それも二十年も前に、ただいじめっ子から守ってくれただけの男を美雪は自分の命を懸けて守ろうとした。それに引き換え、今度は美雪が苦しんでいるのに何もできない自分が現太は情けなかった。みゆきが現太の気持ちを察したのか、心配そうに現太の顔を覗き込んだ。

「ごめんなさい。余計な事言って」

「い、いや、俺の方こそ悪かったな、怒鳴ったりして」

「げんちゃん、私ね」

「ん?」

「ずっと考えていたんだけれど……。私ね、昔の私に戻るわ」

「何だ? 急に。昔の私って、お前……」

「みゆきって名前、私が昔のことを思い出さないようにって、せっかく現ちゃんが変えてくれた名前だけれど、私はもう大丈夫。美雪さんのおかげで私は強くなれたの。美雪さんが現ちゃんを想う気持ちは本物だわ。怒らないでね、これは私の勘よ。美雪さんはずっと前から現ちゃんとめぐり逢う日を待っていたんじゃないかしら。ううん、子供の頃からとかじゃなくて、もっともっと遠い昔よ。その遠い昔に二人は出会っていたのよ。そして、そこにはきっと私もいたんだわ。美雪さんと初めて会った時、私、美雪さんに意地悪なこと言っちゃったけど、何故かそれがとても懐かしかったの。そしてその時、“あーとうとう現ちゃんを取られちゃうんだなぁ”ってそう思ったの」

「みゆき……」

「ううん、もう、今日からはみゆきじゃないわ。早苗、片山早苗。それが私の名前。お母さんがつけてくれたのよね? この名前。過去のことも全部含めて私は私なんだもの。私は何があっても、これからはこの名前で生きていくわ」

 現太はみゆきの決心は本物だと思った。そしてそれがうれしかった。不幸な過去を消すことはできない。しかし、それを忘れるくらい幸せになることはできる。過去に目を背けて生きるのではなく、過去も含めて幸せになることが大切なのだ。そして、時の流れがきっと早苗をそこへと導いてくれるだろう。

 

 遠い昔に出会っていた。早苗にそう言われた時、現太はそれを否定することができなかった。しかし、どんなに昔の記憶を辿ってみても、美雪と初めて会ったのは、二十年前二人ともまだ子供だった頃、美雪の通う幼稚園でしかあり得なかった。

 ただ、美雪を想う時、いつもあの橋のことが頭をよぎる。村の人たちが虹橋と呼んでいたあの橋が、二人にとっては何故かとても大切な場所に思えてならなかった。美雪とは、まだ一度も一緒に行ったことがないはずなのに。それは、確かにそのはずなのに……。

 

 六月も半ばを過ぎた頃、現太が社長の半田のところにやってきた。

「現太、これは何の真似だ?」

 現太が机の上に置いた辞表を半田は顎で突き返して言った。

「社長、火事で壊れた工場や機械がやっと元通りになった。明日から、半年ぶりにようやく稼働できる。俺は、工場を復旧させるまでは辞められねえと思って今日までやって来た。でも、工場の火元責任者は俺だ。それに良樹を危ない目に会わせちまったのも俺の不始末だ。俺は責任を取って会社を辞めさせてもらう」

「誰も、お前のせいだなんて思っちゃいねえよ」

「おれが、良樹を工場に連れて行かなければ良樹はあんな危ない目に合わずに済んだ。会社の規則を破った、俺の責任だ」

 現太はそう言うと、半田の目の前に再び辞表を差し出した。

「現太、これでいいのか?」

 半田は現太を辞めさせるつもりはなかったが、現太が一度決めたことを変えることはないことも知っていた。

「ああ、もう決めたことだ」

「そうか」

 半田は現太の辞表を受け取った。

「これからどうする?」

「社長」

「親父でいい。俺はお前の親父だ」

「そ、そうか。そんじゃ親父、早苗は、あいつはもう一人でも大丈夫だ。だから、俺はあいつと離れて暮らすことにした。それが、あいつのためだと思うんだ」

「帰るのか? 故郷に」

「俺は故郷(あそこ)に何か忘れ物をしてきちまったような気がする。もう一度、あの場所から始めようと思うんだ」

「美雪さんには黙っていくつもりか?」

「あいつは五葉電機の三代目だ。所詮、俺なんかとは住む世界が違うのさ。あいつは、あいつの世界で生きていくことが幸せなのさ」

「住む世界が違う……か、お前でもそんなこと言うんだな」

「おかしいか?」

「いや、やはり幸ちゃんの想い過ごしだったか……」

「こうちゃん? 想い過ごしって何のことだ?」

「いや、何でもない。それより子供たちはどうする? お前がいなくなっちまったら誰が野球の練習見てやるんだ?」

「子供たちのことはシゲに頼んだよ。あいつ、ああ見えて本当は子供好きなんだよ。俺に遠慮して今まで口を出さなかったらしいが、今度の地区大会は絶対に初戦突破してやるって息巻いていたよ。あいつなら、俺も安心して子供たちのことを任せられる。シゲも早苗も子供たちも、皆幸せになってくれるといいんだが……」

「現太、お前もひとのことばかり心配していないで、少しは自分の幸せを考えろよ」

「ああ、そのうちにな」

「現太、元気でやれよ」

「親父、お世話になりました。ありがとうございました!」

 頭を下げ部屋を出て行く現太を、半田はじっと見つめていた。

「幸ちゃん、これで良かったのかなぁ。結局、俺は現太に何もしてやれなかった。あんたに頼まれたのに、父親らしいこと何一つしてやることが出来なかった……」

 半田は自分の拳で机を叩いた。

 梅雨時のじとじととした雨が、半田のいる社長室の窓を濡らしていた。涙雨はしばらく止みそうになかった。(つづく

 

~目次~ 第五章 別れの予感 1  2  3  4

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「めぐり逢う理由」 (第五章 別れの予感)-2-

 十日間の入院生活の後、美雪はようやく退院が許された。喉元の傷もほとんど目立たないまでに回復した。美雪は自分のことより幸太郎の身体が心配だった。美雪が入院している間、美雪の代わりに佳恵が幸太郎の看病をしていたが、佳恵は社長代理として会社を守らなければならず、それももう限界だった。

「美雪、退院早々悪いわね。幸太郎さんのこと頼むわね」

「いいえ、お母さま、私の方こそお父さまが大変な時に迷惑をかけてしまってごめんなさい。お父さまのことは心配しないで。私がちゃんと看病するわ」

「ええ、お願いね」

 美雪は佳恵の疲れ切った顔を見て、現太に言われたように、自分が如何に軽率な行動を取ってしまったのか、改めて反省した。

 

 それからひと月半ほどが過ぎて、三月の初め、名残り雪がようやく芽吹いたフキノトウを覆い隠した頃、美雪の必死の看病も空しく、幸太郎の命の灯は病院のベッドの上で小さく消えかけていた。

その日の夜中、美雪と佳恵は病院からの呼び出しを受け、村上の運転する車で駆け付けた。

「お父さま!」

「あなた!」

 美雪と佳恵は必死に幸太郎に声をかけた。二人から距離をおいて後ろに控えた村上は、厳しい表情をする主治医の顔を見て絶望的な状況であることを察した。二人の呼びかけに気が付いた幸太郎がゆっくりと目を開いた。幸太郎は妻と娘の顔を見て安心したように小さく微笑んだ。

「佳恵、美雪もいるんだね」

「ええ」

「佳恵、会社のこと……苦労かけてすまんな」

「あなた……」

「美雪、母さんを頼む」

「お父さま、しっかりして! お父さま!」

「みんな、仲良く……な」

 争いごとを好まず、愛した家族に残した、幸太郎らしい最後の言葉だった。

 

「社長、帝都銀行の梶原常務とのお約束の時間です」

「え? ああ、もうそんな時間なのね。すぐに支度をします。車を回しておいて頂だい」

「はい」

 幸太郎が亡くなり四十九日が済んだ頃、五葉電機は現実的な問題に直面していた。ある日、佳恵は、五葉電機のメーンバンクである帝都銀行の梶原常務から直々に食事に誘われた。佳恵はすぐに融資のことが頭に浮かんだ。株価が下がり会社が窮地に追い込まれている今、メーンバンクである帝都銀行に融資を渋られるようなことになったら会社は間違いなく清算される。事実上の倒産だ。一万人を超える従業員が路頭に迷うことになる。それだけは避けなければならない。幸太郎の後を継いで五葉電機の社長になった佳恵は、梶原常務との待ち合わせ場所に向かう車の中で、幸太郎が抱えていた苦悩を改めて痛感していた。

 高級ホテルの最上階のレストランの一室を貸し切り、帝都銀行の梶原は佳恵の到着を待っていた。佳恵が到着したことを知るとわざわざ部屋の入口まで出迎えにやって来た。“融資(しごと)の話ではないのか”佳恵は梶原の不自然なまでの笑顔を見ながらそう思った。

「これは、これは西園寺さん、よく来てくださいました。さあさあ、こちらへどうぞ」

 席に座り、ありきたりな世間話が一段落すると、梶原は神妙な顔で話を切り出した。

「西園寺さん、この度はご主人の件、大変残念なことでした。心からお悔やみ申し上げます」

「ご丁寧にありがとうございます。葬儀の時もお心使いをして頂きましてありがとうございました」

「いえいえ、帝都(う)銀行(ち)と五葉電機さんは長いお付き合いですから。当然のことをさせて頂いたまでです。それより、四十九日は過ぎたとは言え、まだまだ辛いこととご心痛お察しいたします」

「はい。しかし、ご心配いただいた方へのご挨拶やら、会社の仕事やら、何かと多忙な毎日で悲しんでばかりもいられません。今は、会社や従業員のためにも主人の分まで私が頑張らなくてはならないとそう思っております」

「そうですか。でも、あまり無理はなさらないように。健康が第一ですからね。うちもね、できるだけのことはさせて頂くつもりです」

「あ、ありがとうございます」

 佳恵は梶原の言葉にほっとして思わず頭を下げた。

「ただねぇ……役員の中には数字だけでものをいう連中も少なくない。これを説得するのがなかなか難しくてね」

「融資のことですか?」

「ええ。幸い彼らは私には一目置いている。私が言えば最終的には折れると思いますがね」

「よ、よろしくお願いいたします。梶原常務、弊社は帝都銀行さんから融資を断られるようなことになったら倒産は免れません。何とか役員の方たちを説得して頂けますよう、よろしくお願いします」

「分かりました。努力してみましょう。ところで西園寺さん、私から一つお願いがあるのですが」

「何でしょう?」

「娘さん、確か、美雪さんとおっしゃいましたね」

「はい」

「一度、うちの息子に美雪さんを合わせてやって欲しいんだが、どうでしょうかね? どこで見初めたんだか、息子が美雪さんのことをえらく気に入りましてね。いかがですか?」

 随分と低姿勢な言い方だが、梶原は明らかに融資の交換条件に美雪と自分の息子の交際を要求してきた。

「え? ええ、でも、美雪に……娘に聞いてみないと……」

「それはそうですね。こういうものは本人どうしの気持ちが一番ですからね。まあ、いい返事を期待していますよ。五葉電機さんの今後のためにもね」

 梶原は、要求をのまなければ融資はしない。そんな脅迫めいた微笑みを浮かべた。佳恵は悩んだ。会社の存続のためには帝都銀行からの融資は必須条件だ。しかし、そのために美雪の幸せを犠牲にすることはできない。会社の経営を任せられる、そういう男性を美雪には見つけてやりたい。しかし、それはあくまでも美雪が幸せであることが前提だ。夫の幸太郎は優秀な経営者だった。そして、同時に自分にとって最愛の男性だった。美雪の人生もそうあって欲しかった。佳恵は梶原の息子と面識はなかったが、父親のコネで入った帝都銀行のどこかの大きな支店の融資課にいることは噂で聞いていた。たた、同時にあまりいい噂も耳にしていなかった。『親の七光り』それが、佳恵の梶原の息子に対して持った印象だった。

 帰りの車の中、佳恵は悩んだあげく、美雪には黙ってこの話を断ろうと考えていた。会社や大勢の従業員を守れなければ経営者としては失格だ。しかし、それでも佳恵は、母親としてはたった一人の娘の幸せを守りたかった。(つづく

 

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「めぐり逢う理由」 (第五章 別れの予感)-1-

別れの予感

 出火の原因が、五葉電機社員の成瀬による放火であったことが分かったのは、現太に助け出された良樹の証言があったからだ。

「恐竜のネクタイしたお兄ちゃんが、あそこで何かしていたよ」

 現場検証の場で良樹は、そう言って成瀬が火のついたままのタバコを投げ入れたゴミ箱を指さした。

 成瀬は上にある監視カメラばかり気にしていて、すぐ傍で見ていた好奇心に満ちた子供の精巧で小さな目には気付いていなかった。

 成瀬が逮捕され、半田社長に謝罪するために幸太郎と佳恵が半田製作所を訪れた。幸太郎は佳恵が押す車椅子に乗って半田のいる社長室までやって来た。

「半田社長、この度は誠に申し訳ありませんでした。社員の不始末は社長である私の責任です。賠償についても誠意を持って対応させて頂きます」

 社長の半田は、ガキ大将がそのまま大きくなって大人になったような、親分肌の男だ。優等生タイプの幸太郎とは同じ社長と呼ばれる立場でありながら、性格も風貌もまったく違っていた。しかし、同じ創業家の二代目ということで、東京に出てくる前から二人は仲が良かった。若い頃は一緒によく飲みに行った。時には、お互いの会社の将来について一晩中、真剣に話し込んだりもした。

 半田は、見た目にもこだわらない性格の持ち主だ。幸太郎と佳恵が通された部屋は、社長室とは言うものの、社長の席として用意された少し大きめな机と年季の入った椅子が一組、それに四人掛けの応接セットが部屋の真ん中にどかんと置かれただけの簡素な造りのものだった。幸太郎と佳恵は、肘掛けもない社長の椅子に座る半田に深々と頭を下げた。

「まあ、工場の建物と機械の修理代についてはきっちり弁償してもらうぜ。だがな、生産が止まった分の損害はチャラにしてやる」

「えっ? でも、半田さん、そういうわけには……」

「佳恵さんよ。悪いがしばらくの間、幸太郎さんと二人きりにしてもらえるかい?」

 半田は椅子から腰を上げ二人に近づくと、佳恵の代わりに幸太郎の乗る車椅子のハンドルを握って言った。

「は、はい」

 佳恵は幸太郎を半田に預け、心配そうな顔をして何度も頭を下げ部屋から出て行った。半田は幸太郎の乗る車椅子を応接のテーブルの脇に付けると、自分は幸太郎と向かい合うように椅子を少し斜めにずらして座った。

「幸太郎さん、さっきの話、勘違いしてもらっちゃ困るぜ。俺は別に、あんたのためでも、五葉さんのためでもねえ、あんたの娘さんに免じて無かったことにしてやると、そう言ってんだぜ」

「美雪に?」

「ああ、そうさ。うちの現太を助けるために、無謀にも崩れ落ちそうな工場の建物の中に飛び込んでいった、女のくせに……なんて、今どきはセクハラだのパワハラだのと言われるのかも知れねえが、あえて言わせてもらえば、女のくせに大したもんだぜ。娘さんと現太はそういう仲なのかい? いや、たとえ恋人を助けるためだとしても、ドラマや映画のセットじゃねぇんだ。あんな真似、男の俺だってできやしねえよ」

「恋人どうしではない……と思う。ただ……」

「ただ?」

「半田さん、私にもよく分からないんだ」

「雄ちゃんでいいぜ。昔のようにさ。なあ、幸ちゃんよ」

「あ、ああ」

 幸太郎は半田と二人きりであることを思い出したように少し照れて笑った。

「うまく言えないんだが、何というか、私は二人の運命は生れる前から決まっていたんじゃないかって、そんな風に思うんだ」

「生まれる前から?」

「うん。私が雄ちゃんに現太くんの親代わりになって欲しいと頼みに行った時のことを覚えているかい?」

「ああ、覚えているよ。さすがの俺も、少年院を出所したばかりの若者を社員として会社に迎え入れるには少し戸惑ったよ。まあ、現太に会って見てその心配は吹っ飛んだけどさ」

「私が現太くんの犯してしまった事件のことを知ったのは、美雪が中学生の時に見た現太くんの夢がきっかけだった」

「現太の夢を? 娘さんが見たっていうのか?」

「ああ、そうだ。当時アメリカにいた私は、日本にいたうちの運転手の村上くんに言って、美雪には内緒で現太くんの裁判の状況を逐一報告してもらっていた。法廷で現太くんは言っていたそうだ。“妹をあんな目に合わせたやつらを俺は許さない。殴り殺してやるつもりだった”と……」

「ああ、俺が現太でもそうしただろうよ。現太の妹を襲った奴ら、あいつらは人間のクズだ! いや、人間じゃねえ。ただのクズだ!」

 半田は拳でテーブルを叩いた。

「でも、現太くんにはそれができなかった。寸でのところで誰かに止められたと彼は言っていたそうだ。ただ、それが誰なのか分からない。それまで散々殴って、既に虫の息だった犯人たちに止めを刺すため、現太くんが拳を振り下ろそうとしたその時、“やめて!”という誰かの泣き叫ぶ声が聞こえたと言うのだ。現太くんはその声で我に返り、相手に重傷を負わせたが、彼は人殺しにはならずに済んだ。“あいつらを殺しても妹の負った心の傷は一生残り続ける。俺は妹の傍にいてやりたい。妹の傍にいてやるためにも、俺は人殺しになってはいけなかった。俺は、あの時のあの声に救われたんだ”と、現太くんはそう言っていたそうだ」

「声に? もしかして、その声の主が娘さんだったってことか?」

 半田の問いかけに幸太郎はゆっくりとうなずいて見せた。

「それを聞いた時、私は美雪が話してくれた夢と同じであったことに驚いた。幼稚園の時にほんの僅かの間一緒だっただけで、そのあと日本を離れて十年近くも経って、しかも、一万キロ以上も離れた場所で現太くんの身に起きた出来事を美雪は夢で見たのだ。それがいわゆる正夢というものではないかと、私は本気でそう思ったよ。現太くんを救った声というのは、美雪が夢の中で叫んだ声だったのかも知れないと」

「正夢……か。たまに聞くけどな、そんな話」

「でも、そんな考えは現実的ではない。誰かの声というのは恐らく現太くんの聞いた幻聴なのだろう。もしかしたら、現太くん自身の心の声だったのかも知れない。ただ、これは娘を持つ父親の勘としか言いようがないのだが、あの子は……美雪は、現太くんをずっと待ち続けていたのではないかと思うんだ。それは十年、二十年などという常識に縛られるような時間ではなく、百年、二百年という時も超えて現太くんとめぐり逢うことを、あの子は待ち続けていたように思う。幼かった美雪が見せた、日本を離れ現太くんとはもう会えないと分かった時の、あの時の悲しそうな目を私は今でも忘れることが出来ない。あれは別れを悲しむ単なる子供の目では無く、時も超えようやくめぐり逢えた大切な人を失わなければならない自分の運命を恨むような、暗闇の中で慟哭する孤独な少女の目だった」

 半田は幸太郎の話を椅子に座ったまましばらくは黙って聞いていたが、部屋に差し込む陽の光に気づいて、その場でおもむろに立ち上がると幸太郎に背を向け窓の方を振り返った。

「時も超えて……か」

半田は社長室の窓から見える、自分よりも遥かに長い時間を生きて来たであろう一本の古い桜の木をじっと見つめていた。

「なるほどな。そうでもなけりゃ、あんな無謀なこと出来るわけねぇか。やっとめぐり逢えた人を今度こそ失いたくなかった。だから、あんたの娘さんは現太を命懸けで守ろうとしたってわけか」

 そう言いながら、半田は美雪の取った行動に今さらながら血の気が引く思いだった。

「幸ちゃん、娘さんのケガの具合はどうだい? やっと声が出るようになったとは聞いたが……。嫁入り前の大事な娘さんにとんだ傷を負わせちまった。申し訳なかった」

「雄ちゃん……」

 幸太郎は深々と頭を下げたままの半田を見つめた。

「ところで幸ちゃんよ、こう言っちゃなんだが五葉さんはちょっと会社が大きくなり過ぎたんじゃねぇのかい? いや、勘違いするなよ、うちが小っちゃな町工場だからって嫌味で言ってんじゃねぇぜ」

「わかってるよ、雄ちゃん」

「あんたが、世之介おやじに頭が上がらないのは分かる。だが、今はあんたの会社だ。幸ちゃん、昔、呑んでよく言ってたろ? 社員旅行や夏祭りをやってた頃の、あの頃の五葉電機が一番良かったって。そういう会社にすりゃいいじゃねぇか」

「できるかな、俺に」

「大丈夫さ、あんな勇敢な娘を育てたあんたならできる。必ずできるさ。うちもできる限り協力させてもらうぜ」

「雄ちゃん」

「偉そうなこと言っちまったが、うちも五葉さんからの仕事がねえとやって行けねえからな。持ちつ持たれつ、お互い様さ。がんばれよ、幸ちゃん。そんな病気、早いとこ直しちまえよ。そしたらよ、また、二代目どうし昔のように酒呑んで語り明かそうぜ」

「雄ちゃん、ありがとう。ありがとう」

 幸太郎と半田はお互いに固い握手を交わした。ドアを挟んで二人の話を聞いていた佳恵は、口にハンカチを押し当て声を殺して嗚咽した。病が幸太郎の身体を容赦なく蝕んでいる。幸太郎は恐らくそのことを知っているはずだ。「できるかな、俺に」とは、自分にはそれを成し遂げるのに十分な時間がないことを心配したのだろう。(つづく

 

~目次~ 第五章 別れの予感 1  2  3  4

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「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-7-

「誰か出て来たぞ!」

 その時、沈黙を破る叫び声にその場にいた全員の視線が工場の建物の入り口に注がれた。そこには、良樹を連れ、美雪を抱きかかえた現太が倒れ込む姿が見えた。

「救急車、救急車だ!」

 現太と良樹、それに美雪が救急隊員の手によって病院に運ばれて行った。運ばれた三人はすぐに治療を受けた。幸いにも良樹にケガはなかった。現太もやけどと全身の打撲を負ったが、入院するまでには至らなかった。しかし、美雪は熱風を吸い込み器官を切開する手術を受けなければならなかった。

 美雪の手術は難しいものではなかったが、喉元の傷口が完全に治るまで、美雪は十日ほど入院しなければならなかった。

「美雪さん、お身体の具合はいかが?」

 入院して一週間が過ぎた頃、みゆきとシゲが見舞いにやって来た。

「ええ、もう大丈夫よ。やっと、声が出るようになったの」

「でも、驚いたわ。美雪さんがあんなことするなんて」

「そうだよな。男の俺だってあの状況で、あの中へ飛び込んでいくことなんてとてもじゃねえができねえよ」

「シゲちゃんはビビリだからね」

「だってよ、完全に鎮火したわけじゃなかったんだぜ。まだ煙も出てたんだし、建物だっていつ崩れてもおかしくなかったんだぜ」

「でも、結局、私が一番迷惑をかけちゃった。現太さん、きっと怒っているわよね」

「そんなことないわよ」

「そうだよ。そんなことないよ」

「美雪さん、私ね、美雪さんに謝らなくちゃ」

「謝る? どうして?」

「私、現ちゃんは私のものだって、ずっとそう思ってたの。誰よりも現ちゃんを一番愛しているのは自分だって。誰にも渡さない。そう思って生きてきたの。だから、美雪さんが現ちゃんの前に現れた時、私、怖かった」

「怖かった? 私が?」

「うん。美雪さんは、今まで現ちゃんの前に現れた女の人とは違っていたわ。うまく言えないけれど、本物っていうか、実の妹の私よりずっと前から現ちゃんと美雪さんは一緒だったんじゃないかって、そんな気がしたの。私は美雪さんのように、あの崩れ落ちそうな建物の中に飛び込んで行くことなんてできなかった。怖くて、足がすくんで、そこに現ちゃんがいるって分かっているのにどうすることも出来なかった。私、気付いたの。私は現ちゃんを愛してたんじゃなくて、現ちゃんにただ守られたいだけだったんだわ。ずっと、守っていて欲しかっただけなの。だから、現ちゃんを私から奪おうとする女の人に今まで随分酷い意地悪をしてきた。美雪さんにもそうだった。ごめんなさい。今頃気付くなんて、私、馬鹿よね」

「そんなことないわ」

「ううん、いいの。馬鹿なの、私。現ちゃんの優しさに甘えて、ずっと現ちゃんを縛り付けてきたの」

「みゆきさん……」

「誰かを好きになるっていうことは、その人に守ってもらうことじゃないのね。その人を命がけで守るってことなのね。その人とずっと一緒にいるためにその人を守り続けることなのね。私もそんな恋がしたい……。そんな風に誰かを好きになってみたいわ」

「みゆきさん、あなたならきっと見つかるわ。そう思える人が」

「ありがとう。美雪さん」

「俺が恋人になってやってもいいぜ」

「はあ? 何で私の恋人がシゲちゃんなのよ! ばっかじゃないの」

「馬鹿とは何だよ」

「私はね、面食いなのよ。あんたなんか好きにならないわよーだ」

「何だよ、それ。こう言っちゃなんだが現太も大した顔してねえぜ」

「あーっ、ひどーい」

 二人の女が声をそろえてシゲの口撃から現太を守った。

「な、何だよ。俺だけ悪者かよ」

 現太ばかりがモテてシゲは不満顔だったが、美雪はシゲとみゆきは案外お似合いだなと心の中でそう思い、二人を見て微笑んだ。

 その時、美雪の病室の扉が開く音が聞こえ、三人が思わず入口に目をやると、そこには現太が立っていた。

「あら、現ちゃん。何? 美雪さんのお見舞いに来たの?」

「な、何でお前らがいるんだよ」

 現太は驚いたような、そして罰が悪そうな顔をした。

「俺たちは美雪さんのお見舞いに来たんだよ。お前もお見舞いにきたのか? そりゃそうだよな。美雪さんは命懸けでお前を助けてくれたんだからな。お前の女神さまだからな。美雪さんは」

「ふふ、ほんとね」

「う、うるせ! 誰が、見舞いなんかに来るか。俺はな、こいつに文句を言いに来たんだよ。無茶なことしやがって、助かったのは運が良かっただけだ。一歩間違えれば三人とも死んでいたんだ。お前の軽はずみな行動がどれだけ危険だったと思ってんだ!」

「ご、ごめんなさい。私……」

「現ちゃん、何もそんな言い方しなくても。美雪さんだって現ちゃんのことが心配で……」

「うるせー! お前は黙ってろ! いいか、俺は許さねーからな!」

「現ちゃん!」

 現太はそのまま病室を出て行ってしまった。

「おい、現太! 待てよ」

 シゲが後を追ったが、諦めてすぐに戻ってきた。

「まったく! あいつは。あんな言い方しなくたって」

「本当よ。感謝するってことを知らないんだから」

 病室の入口で、みゆきとシゲは現太に怒鳴られた美雪を気遣った。

「へへ……私、やっぱり現太さんに嫌われちゃった」

 美雪は二人の気遣いに無理やり笑顔を作って見せたが、悲しみに耐え切れず布団を頭から被ってしまった。

「美雪さん……」

 その時、シゲが病室の入り口に置かれた紙袋に気付いた。

「なんだこりゃ」

 シゲが袋の中を覗いて見ると、

みゆきちゃん、これ……」

「これって、現ちゃんが持ってきたの?」

「だろうな」

 二人は顔を見合わせると思わず微笑んだ。

「美雪さん、大丈夫よ。現ちゃんは美雪さんのこと嫌いになったりしていないわ」

 紙袋の中には花束が一つ入っていた。

「美雪さん、顔見せて。ほら、これ見て」

 美雪がゆっくりと布団から顔を出した。現太に嫌われたことが、よほど悲しかったのだろう。真っ赤に腫らした目を潤ませていた。

「これは?」

「現ちゃんが持ってきたのよ。嫌いになった子のためにわざわざこんな花束持って来たりしないわ。大丈夫、現ちゃんは美雪さんのことを嫌いなんかじゃないわ。きっと、私とシゲちゃんがいたんで照れ隠しにあんなこと言ったのよ」

「そうだよ。あの現太が花束持ってくるなんて。あいつ、花屋でどんな顔してこれ買ってきたんだろな。想像するだけで笑っちゃうよ。きっと、ここまで持ってくるのが恥ずかしかったんだろうぜ。こんな安っぽい紙袋に入れてさ」

「そうね。現ちゃんが女の子のために花束買うなんて想像できないもの。私だって一度ももらったことないわ。でも、それにしてもセンスないわね。綺麗だけど、なんで同じ花ばかりこんなにたくさん買ってきたんだろう」

 シゲが広げて見せた紙袋の中から、ようやく適切なスペースを与えられたピンク色のスイートピーの花々が美雪の目の前で溢れ出るようにして広がった。みゆきとシゲは首を傾げて不思議がったが、それを見た美雪の目からは涙がこぼれ落ちた。

(現太さん、覚えていてくれた……)

 ―おにいちゃん、これあげる―

 ―わたしね、このおはながいちばんすきなの―

 あの日、まだ幼かった美雪がそう言ってげんちゃんに手渡した花。

「ありがとな」

 照れながら、げんちゃんが大事そうに受け取ってくれた花。

 現太がその花を覚えていてくれた。

 そのことが美雪は何よりもうれしかった。(つづく

 

~目次~ 第四章 もうひとりのみゆき 1  2  3  4  5  6  7

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「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-6-

 半田社長に何度も怒鳴られ、その度に追い返されていた成瀬は、上司から言い渡された半田社長を説得する最終期限を前に、ついに子供染みた行動に出た。

「半田製作所でボヤ騒ぎが起き、半田社長との話し合いが先延ばしになった」そう上司に言い訳するつもりだった。

 昼休み、ひと気のなくなった半田製作所の工場に忍び込み、ゴミ箱に火がついたままのたばこの吸い殻を入れた。何度も半田製作所に来ている成瀬は監視カメラの位置も把握していた。通常通るはずの位置にあるカメラにはあえて自分の姿が映るようにした。代わりに、そこにいるはずのない場所では、人や物陰に隠れながら工場に行き、火をつけた。

 その頃、会社の事務所に工場長の田部井の妻と息子の良樹が、田部井が忘れた弁当を届けるためにやって来ていた。

「あっ、現太さん、熊さんお弁当忘れたんだって。奥さんが届けてくださって」

「主人にはお弁当を届けに行くって、携帯にメールしたんですけど」

「ああ、そうか。じゃあ、まだ工場にいるんだろうよ。俺が持って行ってやるよ」

「ぼくも行く!」

「ダメよ、良樹。お仕事の邪魔になるでしょ」

「いいさ、今は昼休みだし。良樹、父ちゃんに弁当持っていくか?」

「うん」

 現太が父親に渡す弁当を持った良樹をつれて工場までやって来たが、田部井の姿は見当たらなかった。

「おかしいな、奥さんのメールに気が付かないで食堂にでも行っちまったのかな」

「良樹、父ちゃん呼んでくるから、ここでちょっと待ってろ」

「うん」

「どこへも行っちゃだめだぞ」

 現太はそう良樹に言い残して、工場の事務所に田部井を呼びに行った。しかし、五分ほど過ぎて、それまで大人しく現太の帰りを待っていた良樹が、我慢できずうろちょろと工場の中を歩き始めた。小さな子供にとって、大きな工場はまるで遊園地のテーマパークにでも見えたのかも知れない。好奇心旺盛な良樹は、止まっている機械を覗き込んだり、床に引かれた作業の動線を表すライン沿いに歩いてみたり、気が付くと広い工場の中でいつしか迷子になっていた。

 良樹は元居た場所に戻ろうと工場の中をぐるりと見渡した。しかし、大きな機械に埋もれて良樹の視界は遮られた。ふと見ると、奥の暗がりに人の動く影が見えた。ひとりぼっちで不安だった良樹は、迷わずその影に向かって歩き出した。(あのお兄ちゃん、何してるんだろう)近くまで行くと、子供ながらに良樹はその影に声を掛けてはいけないのだと思った。良樹が見たのは、火のついたタバコをゴミ箱に投げ入れ、監視カメラを気にしながらその場を立ち去ろうとしていた成瀬の姿だった。良樹は増々不安になり、現太を探してもと来た通路を走って戻った。

 ―ドッカーン―

 突然、工場の建物の隅で何かが爆発したような音が聞こえた。

「何だ、今の音は?」

 音がした方向に現太が走って行くと、

「火事だ!」

 誰かが叫んだ。

 ―ビービービー、火事です。避難してください―

―ビービービー、火事です。避難してください―

 けたたましい警報音とともに無機質な機械の音声が流れた。

「どうした?」

 現太は消火器を取りにやって来た同僚の仲間に尋ねた。

「火事です。Cラインの近くで火が出ています」

「何だと! 直ぐに消すんだ」

「はい!」

「はっ、良樹……」

 現太の頭にすぐに良樹のことが思い出された。

「良樹! 良樹! どこだ!」

 現太は良樹を探して工場の中を走り回ったが、良樹の姿はどこにも見当たらなかった。

 騒ぎを聞きつけて社長の半田も工場に駆け付けた。

「社長! Cラインで流れていた原料のエチルアルコールに、何かの火が引火したみたいです!」

 現場を確認してきた社員が半田に状況を報告した。

「皆を非難させろ。これ以上は危険だ。後は消防に任せるんだ」

「はい」

「社長! 良樹くんが……熊さんとこのお子さんの良樹くんがいません!工場に残っているかも」

 女子社員の松村が泣きそうな声で言った。

「何だと! 何で熊さんの子供が工場にいるんだ」

「良樹くん、熊さんにお弁当届けに来て、現太さんが一緒に工場に届けにいったんだけど」

「熊さんはどうしてる!」

「熊さんも奥さんもパニックになっていて、工場の中に探しに行こうとしたんだけど、現太さんがそれを止めて、でも、代わりに現太さんが中に入って行って……」

「くっそー。消防車はまだか!」

 半田製作所で起きた工場火災は、五葉電機の本社にもその情報が伝わっていた。

「青山室長、火事はどうも半田製作所の工場みたいです」

「半田って、うちの下請けか?」

「ええ」

「何やってんだ。だから駄目なんだよ。中小企業は。危機管理がなっちゃいねぇんだよ。井上、総マテ(総合マテリアル事業部)に行って、半田製作所が関連しているうちの製品の生産計画への影響を報告するよう伝えろ!」

「はい!」

「美雪くん、専務に報告に行くから一緒に来てくれ」

(現太さんの会社が……)

「美雪くん、どうした?」

(現太さん……)

 美雪には青山の言葉が聞こえていなかった。窓の向こうに見える、もうもうと立ち上る黒煙を震えながら見つめていた。

「美雪くん、専務に……」

 青山がもう一度声を掛け、窓の外を見つめたままの美雪の肩に手を置こうとした次の瞬間、美雪はその手を振り払い、意を決したように部屋を飛び出して行った。

「み、美雪くん! どこへ行くんだ!」

 美雪はエレベータを降り、反応の悪い出入口のセキュリティーゲートに自分のネームプレートを何度も押し当て、会社のビルを飛び出すと、タクシーに乗り込み半田製作所へと向かった。

 

 半田製作所に美雪が着いた時、すでに数台の消防車が工場に向かって放水を行っていた。辺りには焦げ臭い匂いが充満しており、美雪は思わずハンカチで口を覆った。火は鎮火しているように見えたが、時折、何かが爆発するような音が聞こえた。

「みゆきさん……」

美雪は、工場を取り囲む大勢の人間の中に、連絡を受けて先に駆けつけていたみゆきの姿を見つけた。みゆきは真っ黒に焦げた工場を震えながら呆然と見つめていた。

「みゆきさん! 現太さんは? 現太さんはどこなの!」

 みゆきは震える手で今にも崩れ落ちそうな工場を指さし、その場に崩れ落ちた。

「あの中に、現太さんがいるのね?」

 みゆきがうなだれるように頷いた。それは現太の身に起きた最悪の状況を示唆していた。

「現太さん……今、行くわ」

 美雪はそう呟くと、とっさに工場の建物に向かって駆け出した。

「おい! こら! まだ入っちゃいかん! 火が完全に消えたわけじゃないんだぞ! こら! だめだ! 建物が崩れたらどうする!」

 美雪は消防士たちの制止を振り切り、建物の中へと飛び込んでいった。美雪の姿は煙に阻まれてあっという間に見えなくなった。

  ―ギューン、バーン―

  美雪の姿が建物の中に消えて間もなく、甲高い乾いた爆発音とともに工場の屋根が吹き飛び白煙が舞い上がった。炎が再び燃え上がり、消防隊は慌てて放水の的をそこへ集中させた。

「火を消すんだ! は、早く、中の人間を助けるんだ!」

  ―ガシャーン、バリバリバリ―

  その時、破滅を思わせる音とともに工場の一部が崩れ落ちた。それを見た消防隊員たちは、言葉を失い呆然とその場に立ち尽くした。

「可愛そうに……」

 誰かが、ぽつりと呟いた。目の前で起きた悲劇に誰もが涙した。群集の間を嫌な沈黙の空気が流れた。どこからともなくすすり泣く声が聞こえた。ほんの数分間の出来事だったに違いない。しかし、とても長い時間が過ぎたように思えた。

 遠い昔、『いのち』が儚く悲しいものだと言うことを、ひとりの少女によって教えられた。そして今、それが変えようのない事実であることを、繰り返された悲劇によって思い知らされた。

 それを、二人の運命だと言うのなら、人が神を信じることに一体何の意味があるのだろう。人は何を祈ればいいのだろうか。

 それでも人は神に祈る。奇跡という名の慈悲を求めて……。(つづく

 

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「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-5-

 それから、美雪は毎日病院に通った。朝、会社へ行く前と会社の帰りに幸太郎を訪ねた。十二月に入って、街は既にクリスマス一色だった。病院の中でさえ、そんな飾りが目についた。

「お父さま、もうすぐクリスマスね。覚えてる? 二十年前アメリカへ引っ越した日、あの日はとても寒い日だったわ」

「確か、クリスマスの翌日だったね。お前はサンタに貰った手袋をうれしそうに自慢してたっけなぁ」

「今でも大切に持っているわよ。もう手にははめられないけど……」

 美雪と幸太郎は二十年の歳月をゆっくりと遡っていった。

「お父さま、あの頃……私が幼稚園に通っていた頃、げんちゃんって言うお兄ちゃんがいたことを覚えている?」

「ああ、覚えているよ。お前の王子さま、げんちゃん王子だったね」

「ええ、お母さまのお迎えが遅くなる日、その日だけ私はげんちゃんに会うことができた。私はその日がいつも楽しみだったわ」

 幸太郎はベッドの上で幼い日の美雪の姿を思い浮かべていた。

「お父さま、驚かないで。私、そのげんちゃんに会ったの」

「え? どこで、どこで会ったんだね?」

 幸太郎は何故か少し慌てたように美雪に言った。

「私が通っている少年野球チームの監督さんが、そのげんちゃんだと思うの。間違いないわ。だって、その方は熊野川に架かるあの橋の向こうで生まれたみたいなの。覚えているでしょ? あの橋よ。げんちゃんの叔母さんが虹橋と呼んでいた、あの変わった形の橋よ」

「美雪、人違いってことはないのか?」

「私も初めはそう思ったわ。こんな偶然があるはずないと何度も自分にそう言い聞かせた。でも、私にはわかるの。その方は間違いなく、あのげんちゃんなの」

「その人の名は、何と言うんだね?」

「現太さん……。片山現太さんというの」

「そうか。そうなのか」

 幸太郎は何かを観念したように、目を閉じ息を深く吐き出した。

「だけど……、現太さんは私のこと忘れちゃったみたいなの。仕方ないわよね。だって、二十年も前のことですもの。私、現太さんにあの頃のこと、もう一度ちゃんと話してみようと思うの。そうすればきっと思い出してくれると思うわ。だって、あの頃私のこと……」

「美雪、現太くんは……」

 少し興奮気味に話す美雪の話を、幸太郎はしばらくはただ黙って聞いていたが、げんちゃんへの期待で胸がいっぱいの娘を直視することができなくなり、思わず口を挟んだ。

「美雪、現太くんはお前のことを忘れてはいないと思うよ」

「そうよね。だって……」

「忘れてはいないと思うが、彼はお前を覚えているとは言わないかも知れない」

「え? お父さま、どういうこと?」

「美雪、これはお前が現太くんと再びめぐり逢うことがなければ、私は黙っておくつもりだった。しかし、君たちは出会ってしまったんだね。これは二人の運命なんだね。お前が現太くんの過去を知ってしまうのも時間の問題だろう。もう、隠してはおけまい……」

「お父さまは、現太さんのことを知っているの?」

「半田製作所に現太くんを入社させることを、社長の半田さんにお願いしたのはこの私だ」

「えっ?」

「うちの会社とは違って、半田製作所は中卒だろうと高校中退だろうと、社長の半田さんが自分で会って話をして採用するかどうかを決める。現太くんを半田さんに会わせたとき、高校中退で、しかも、少年院にまで入っていた現太くんを半田さんは迷うことなく入社させてくれた」

「少年院? 現太さんが少年院にいたと言うの? そんなの嘘よ。お父さまは一体いつから現太さんのことを知っていたの?」

「美雪、覚えているかい? あれは、お前が十三歳になったばかりの頃、お前はげんちゃんの夢を見たと、私に話してくれたことがあったね」

「ええ、とても怖い……というか悲しい夢だったわ」

「そう、その夢だ。私はお前の見たその夢のことが気になって、日本にいた村上くんにお願いして現太くんのことを調べてもらったんだ。美雪、よく聞くんだ、現太くんは……彼は、高校最後の年、十八歳から二年間、愛知県の少年院にいた。罪状は殺人未遂だ」

「殺人未遂!? 現太さんが? 嘘、そんなの嘘よ!」

「嘘ではない。しかし、それには訳がある。あの真っすぐで優しい現太くんが理由もなくそんなことをするはずがない。現太くんは妹さんのために罪を犯してしまったのだ」

「みゆきさんのために?」

「ああ、現太くんと妹さんはご両親を突然の事故で早くに亡くした。現太くんが八歳で妹さんはまだ三歳だった。二人の身内はお母さんのお姉さんにあたる現太くんたちの叔母さんと、父方の遠い親戚だけだった。現太くんの叔母さんは旦那さんを亡くして独り身だったが、体が弱く生活も苦しかった。とても二人の幼い子供を引き取ることなどできなかった。現太くんが叔母さんと暮らし、妹さんは父方の親戚に預けられることになった。それは、現太くんが望んでそう決めたことだった。父方の親戚というのはとても裕福な家で、現太くんはお金持ちの家に行けば妹さんは幸せになれるとそう思ったらしい。無理もない、まだ八歳の子どもだ。しかし……」

「みゆきさんに何かあったの?」

「う、うん……妹さんが預けられた先の家には、年上の男の兄弟がいたのだが、妹さんは大きくなるにつれ、その兄弟たちに随分といじめられていたようだ。現太くんとは時々手紙のやり取りをしていたのだが、我慢強い妹さんはそのことをずっと現太くんに隠していた。現太くんに心配をかけたくなかったのだろう。しかし、妹さんが中学校の一年生になった年、その兄弟が不良の仲間たちに妹さんを乱暴目的に襲わせた。妹さんはまだ十三歳だったというのに身も心もぼろぼろになり遂には自殺未遂まで起こした。

 それを知った現太くんは激しく怒り、その兄弟と妹さんを襲った連中に復讐をした。幸い命は取り留めたものの、彼らに瀕死の重傷を負わせてしまったんだ。本来なら、そのことに至った経緯を考慮すれば情状酌量の可能性もあったのだが、現太くんが高校のボクシング部に所属していたことと、明確に殺意があったことを認めたため、殺人未遂という罪状がついた。

 現太くんは大人になった今でも自分を責めている。ずっと苦しんでいた妹さんの気持ちに気付いてやれなかった。自分が妹をあの家に預けなければと。妹さんに忌まわしい記憶を思い出させたくなかった現太くんは、昔のことを一切忘れることにした。自分も妹さんも、この東京に出て来たところから人生が始まったと。そう思うことにしたんだ。

 現太くんが……げんちゃんが、お前のことを覚えていないはずはない。しかし、それを認めてしまったら、せっかく忘れていた、いや、思い出したくなかった過去を思い出すことになる。それは妹さんも同じだ。だから、あえて現太くんはお前のことを覚えていないふりをしたのではないだろうか。

 すべての事情を知っている半田さんから聞いたのだが、あの事件から十年以上経った今でも、妹さんは夜中にうなされることがあるそうだ。現太くんの腕を掴んでいないと眠れないそうだ。もしかしたら、妹さんは一生現太くんの傍から離れることができないのかも知れない」

 ずっと黙ったままで幸太郎の話を聞いていた美雪は、あの日見た、現太の寂びそうな後ろ姿を思い出していた。そして、自分が現太を想えば想うほど、会えば会うほど二人を苦しめることになるのだと思った。みゆきの現太を見つめるあの目は、たった一人の心許せる大切な人を……現太を誰にも渡さないという、心の叫びにも似た目だったのだ。(つづく

 

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「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-4-

 幸太郎が倒れた。

 美雪が現太に妹がいたことを知った四日後、十二月に入って日本列島を覆う寒波が本格的な冬の訪れを告げた頃、美雪は会社での午後の会議中に突然その知らせを聞いた。

「美雪くん、す、すぐに東京第一病院に行きなさい」

 美雪を会議室の外に呼び出した青山は少し慌てた様子だった。

「何かあったんですか?」

「社長が倒れて病院に運ばれたそうだ」

「えっ!」

「詳しいことは分からないが、来賓として出席していたパーティーの席で突然倒れて、そのまま東京第一病院に運ばれたということだ」

「父が……」

「このことはまだ一部の人間しか知らない。私も後から向かうから、とにかく美雪くんはすぐに病院に向かいなさい。下にタクシーを待たせてある」

 青山は手に持っていた美雪のハンドバッグを差し出した。

「は、はい。ありがとうございます」

 バッグを取りに行く時間も惜しまれるほど、幸太郎の容態は悪いのだろうか。美雪は青山の用意したタクシーに乗り込み、急いで病院へと向かった。

「お父さま……」

 膝の上で握りしめたハンカチを見つめながら美雪は呟いた。確かに、社長に就任してからの幸太郎は、前にも増して多忙な毎日を送っていた。そのことを、美雪も気にはしていたがついつい見過ごしてしまっていた。もっと、幸太郎と言葉を交わしておけばよかった。そうすれば、何か幸太郎の身体の異変に気付いてやることが出来たかも知れない。

 幼い頃、佳恵に叱られて落ち込んでいた時も、思春期、学校で友達と喧嘩して部屋に閉じこもってしまった時も、幸太郎の掛けてくれた言葉でいつも元気になることができた。幸太郎はいつも自分のことを見ていてくれた。今さらながら、美雪は父の存在の大きさを実感していた。それなのに自分はそんな父親のことを何も見ていなかった。父の笑顔の裏で何が起きていたのか、気付こうともしなかった。何より、自分のことしか考えていなかった自分自身を美雪は許せなかった。

 

 医者の応急処置により、幸太郎の病状は大事には至らなかった。ただ、「美雪、村上さんと一緒に先に家に帰りなさい」そう言って、医者とともにカウンセリングルームに入って行った佳恵の不安そうな表情が気になった。

「お嬢さま、旦那さまの具合、大事に至らなくてよろしゅうございました」

 帰りの車の中、村上はルームミラーの中に美雪の姿を探しながらそう言った。

「プーさんにもご心配をおかけしちゃったわね」

「いえ、私のことなど……それより、お嬢さまは大丈夫ですか? お疲れではありませんか?」

「ええ、安心したら何だか眠くなってきちゃった。お母さまはお医者様と何をお話ししているのかしら……」

「きっと、入院の手続きとか、事務的なお話ではないでしょうか」

「そうかしら……」

「どうぞ、お自宅に着きましたらお声掛けしますので、ご心配なさらずにゆっくりお休み下さい」

「そうね。そうさせて貰おうかしら。ごめんなさい」

 村上は美雪の眠る姿をルームミラーで確認すると、かけていたラジオのスイッチを消した。そして、まだ幼かった頃の美雪の姿を思い浮かべた。幼稚園で駆けっこをしたり、お友達とはしゃぎ過ぎた日の帰りは、美雪はこうして村上の運転する車の後部座席で、体に合わないシートベルトをしたままよく居眠りをしていた。二十年も離れていたが、そして美雪は立派な令嬢となったが、こうしてこのご主人様と、あの頃と何も変わらない二人だけの時間をまた一緒に過ごせる幸せを、村上はお腹の上に乗ったハンドルを握りしめながら感じていた。

 

 翌日、午前中だけ仕事をして美雪は幸太郎の入院している東京第一病院に向かった。病院に着いてみると、そこには佳恵と右手で突いた杖に自分の体の重さを預けながら何やら深刻な顔で話す世之介の姿があった。

「あら、お爺さまもお見舞いに来てくださったの?」

 遠くから掛けた美雪の声に、二人は少し慌てたように笑顔を取り繕った。

「おお、美雪か、幸太郎くんは眠っているので、佳恵と私は一旦家に戻るが、お前は幸太郎くんの傍にいてやってくれるか?」

「あ、はい。午後はお休みを頂いたのでずっといるつもりよ」

「うむ、それがいい」

「美雪、じゃあ、幸太郎さんのこと頼んだわね」

「え、ええ」

 隠居して昔に比べ随分と性格が丸くなったとは言え、“傍にいてやってくれ”などという弱々しい言葉が、世之介の口から出たことに美雪は妙な違和感を覚えた。

「お母さま?」

 美雪は帰りかけた佳恵を呼び止めた。

「お母さま、お父さまは何の病気なんですか? ただの過労ではないのですか? 何か悪い病気なのですか?」

「お父さん、先に車に行っていてください。私は美雪と少し話してから行きますので」

「ああ、そうだな。それがいい」

「美雪、ここでは何ですから……」

 そう言って、佳恵は美雪を誰もいない、中庭の見渡せる患者のために用意された病院の休憩室に連れ出した。そこで美雪は、佳恵に言われ、二人分のコーヒーを自動販売機で買った。近くの椅子に腰を下ろし、佳恵は両手でカップを持ったまま何か思いつめたように、中で小刻みに揺れるコーヒーを見つめていた。

「お母さま、大丈夫?」

 心配した美雪が佳恵に声を掛けた。

「ええ、大丈夫よ」

そう言うと、佳恵は冷めかけたコーヒーをひと口だけ飲んだ。

「美雪、落ち着いて聞くのよ。幸太郎さんの病気は……」

 佳恵は次の言葉を口にすることが辛そうだった。佳恵の目からこぼれ落ちた涙が、持っていたカップの脇を霞めて膝の上に落ちた。

「すい臓のがんなの。先生からは余命三ヶ月と言われたわ」

 佳恵は肩を震わせながらようやくその言葉を口にした。

「え? 嘘、嘘よ、嘘なんでしょ。だって、ただの過労だって先生はおっしゃってたわ」

「私だって信じたくありません。でも、検査結果は間違いないと……先生はそうおっしゃっているの」

「信じない。私、信じない。お父さまは病気なんかじゃないわ。例え病気でもきっと治るわ。いえ、私が治す。必ず治して見せるわ。だって、お父さまがいなくなったら私どうすれば……うっ、うう」

「美雪……」

 佳恵は自分の娘でありながら、美雪が冷静で頭のいい子であることを知っていた。その娘が今、父親の死に直面して冷静さを失い、出来もしないことを言って子供みたいに駄々を捏ね泣きじゃくっている。佳恵は美雪のその姿に涙した。

 しばらくして、美雪はひとりで幸太郎の病室までやって来た。美雪は佳恵と別れここへ来るまでの間、自分の涙を拭き、鏡に向かって笑顔を作った。しかし、幸太郎の顔を見たら、せっかく作った笑顔が消え、急にまた涙が溢れ出てきた。

「美雪か?」

 病室に入って来た美雪を見つけて幸太郎が言った。

「お父さま、お目覚めになったのね。今、お爺さまとお母さまをお見送りして来たところよ」

 美雪は幸太郎に顔を見られないようにして、病室の中の狭い洗面台の前に立った。

「佳恵とお義父さんも来ていたのか? 私はいったい……」

「覚えてないの? 昨日、パーティーの席で倒れて、そのまま病院に運ばれたのよ」

 化粧を直すふりをして涙を拭いた。

「倒れた? 私が?」

「ええ、でも、安心して。ただの過労ですって。少し入院が必要だけど、検査が終わればすぐに退院できるって、お医者様がそうおっしゃっていたわ」

「そうか、皆に心配かけてしまったね」

「会社の方は大丈夫だからって、お母さまや幹部の方たちもおっしゃっていたわ。だから、心配なさらないで」

「そうだな。このところ少し無理をし過ぎたようだ。しばらく仕事を休ませてもらうとするか」

「それがいいわ」

 ようやく作り直した笑顔を見せ、美雪は幸太郎のベッドの横に腰を下ろした。

「こんなことでもなければ、お前とこうしてゆっくり話をすることもできなかったかもな」

「そうね。お父さまと二人きりで話すなんて随分と久しぶりかもね。お父さま、少し、ベッドを起こしましょうか?」

「ああ、そうだな」

 美雪は幸太郎が話しやすいように、リモコンを操作してベッドを少しだけ起こした。

「昔、お前が幼稚園に行っていた頃、私の書斎でいろんな話をしたね。お前は私の膝の上に乗って一緒に本を見ながら……」

「ふふふ、やだわ、お父さまったら、もう二十年も前のことよ」

 再び涙が溢れそうになり、美雪は思わずそれを可笑し涙に変えてハンカチで拭った。

「そうか、もう二十年も経つのか。早いものだな」

「もうお父さまの膝の上には乗れないわよ。私の方が背が高いもの」

 涙はまだ止まりそうになかった。

「ふふふ、そうだな」

 幸太郎は美しく成長した自分の娘をうれしそうな、それでいて寂びそうな、そんな目をして見つめた。

「今日は冷えるわね。お父さま、寒くない?」

「ああ、大丈夫だよ」

「あら? 風花が舞ってるわ。どうりで寒いわけよね」

 涙を堪えきれず、美雪はそう言って幸太郎に背を向け、窓越しに空を見上げた。

 いつもやさしいお父さまは、ずっと一緒にいてくれると思っていた。父の膝の上で聞いた、勇者ペルセウス神の話を思い出した。おじいさんが作ったお箸の話を思い出した。父の書斎で過ごした二人だけの時間が美雪の脳裏に走馬灯のように蘇った。

 大人になるということは何かを失うということなのだろうか。げんちゃんも、幸太郎も、美雪にはもうあの時のように微笑んではくれないのだろうか。(つづく

 

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