「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-6-

 半田社長に何度も怒鳴られ、その度に追い返されていた成瀬は、上司から言い渡された半田社長を説得する最終期限を前に、ついに子供染みた行動に出た。

「半田製作所でボヤ騒ぎが起き、半田社長との話し合いが先延ばしになった」そう上司に言い訳するつもりだった。

 昼休み、ひと気のなくなった半田製作所の工場に忍び込み、ゴミ箱に火がついたままのたばこの吸い殻を入れた。何度も半田製作所に来ている成瀬は監視カメラの位置も把握していた。通常通るはずの位置にあるカメラにはあえて自分の姿が映るようにした。代わりに、そこにいるはずのない場所では、人や物陰に隠れながら工場に行き、火をつけた。

 その頃、会社の事務所に工場長の田部井の妻と息子の良樹が、田部井が忘れた弁当を届けるためにやって来ていた。

「あっ、現太さん、熊さんお弁当忘れたんだって。奥さんが届けてくださって」

「主人にはお弁当を届けに行くって、携帯にメールしたんですけど」

「ああ、そうか。じゃあ、まだ工場にいるんだろうよ。俺が持って行ってやるよ」

「ぼくも行く!」

「ダメよ、良樹。お仕事の邪魔になるでしょ」

「いいさ、今は昼休みだし。良樹、父ちゃんに弁当持っていくか?」

「うん」

 現太が父親に渡す弁当を持った良樹をつれて工場までやって来たが、田部井の姿は見当たらなかった。

「おかしいな、奥さんのメールに気が付かないで食堂にでも行っちまったのかな」

「良樹、父ちゃん呼んでくるから、ここでちょっと待ってろ」

「うん」

「どこへも行っちゃだめだぞ」

 現太はそう良樹に言い残して、工場の事務所に田部井を呼びに行った。しかし、五分ほど過ぎて、それまで大人しく現太の帰りを待っていた良樹が、我慢できずうろちょろと工場の中を歩き始めた。小さな子供にとって、大きな工場はまるで遊園地のテーマパークにでも見えたのかも知れない。好奇心旺盛な良樹は、止まっている機械を覗き込んだり、床に引かれた作業の動線を表すライン沿いに歩いてみたり、気が付くと広い工場の中でいつしか迷子になっていた。

 良樹は元居た場所に戻ろうと工場の中をぐるりと見渡した。しかし、大きな機械に埋もれて良樹の視界は遮られた。ふと見ると、奥の暗がりに人の動く影が見えた。ひとりぼっちで不安だった良樹は、迷わずその影に向かって歩き出した。(あのお兄ちゃん、何してるんだろう)近くまで行くと、子供ながらに良樹はその影に声を掛けてはいけないのだと思った。良樹が見たのは、火のついたタバコをゴミ箱に投げ入れ、監視カメラを気にしながらその場を立ち去ろうとしていた成瀬の姿だった。良樹は増々不安になり、現太を探してもと来た通路を走って戻った。

 ―ドッカーン―

 突然、工場の建物の隅で何かが爆発したような音が聞こえた。

「何だ、今の音は?」

 音がした方向に現太が走って行くと、

「火事だ!」

 誰かが叫んだ。

 ―ビービービー、火事です。避難してください―

―ビービービー、火事です。避難してください―

 けたたましい警報音とともに無機質な機械の音声が流れた。

「どうした?」

 現太は消火器を取りにやって来た同僚の仲間に尋ねた。

「火事です。Cラインの近くで火が出ています」

「何だと! 直ぐに消すんだ」

「はい!」

「はっ、良樹……」

 現太の頭にすぐに良樹のことが思い出された。

「良樹! 良樹! どこだ!」

 現太は良樹を探して工場の中を走り回ったが、良樹の姿はどこにも見当たらなかった。

 騒ぎを聞きつけて社長の半田も工場に駆け付けた。

「社長! Cラインで流れていた原料のエチルアルコールに、何かの火が引火したみたいです!」

 現場を確認してきた社員が半田に状況を報告した。

「皆を非難させろ。これ以上は危険だ。後は消防に任せるんだ」

「はい」

「社長! 良樹くんが……熊さんとこのお子さんの良樹くんがいません!工場に残っているかも」

 女子社員の松村が泣きそうな声で言った。

「何だと! 何で熊さんの子供が工場にいるんだ」

「良樹くん、熊さんにお弁当届けに来て、現太さんが一緒に工場に届けにいったんだけど」

「熊さんはどうしてる!」

「熊さんも奥さんもパニックになっていて、工場の中に探しに行こうとしたんだけど、現太さんがそれを止めて、でも、代わりに現太さんが中に入って行って……」

「くっそー。消防車はまだか!」

 半田製作所で起きた工場火災は、五葉電機の本社にもその情報が伝わっていた。

「青山室長、火事はどうも半田製作所の工場みたいです」

「半田って、うちの下請けか?」

「ええ」

「何やってんだ。だから駄目なんだよ。中小企業は。危機管理がなっちゃいねぇんだよ。井上、総マテ(総合マテリアル事業部)に行って、半田製作所が関連しているうちの製品の生産計画への影響を報告するよう伝えろ!」

「はい!」

「美雪くん、専務に報告に行くから一緒に来てくれ」

(現太さんの会社が……)

「美雪くん、どうした?」

(現太さん……)

 美雪には青山の言葉が聞こえていなかった。窓の向こうに見える、もうもうと立ち上る黒煙を震えながら見つめていた。

「美雪くん、専務に……」

 青山がもう一度声を掛け、窓の外を見つめたままの美雪の肩に手を置こうとした次の瞬間、美雪はその手を振り払い、意を決したように部屋を飛び出して行った。

「み、美雪くん! どこへ行くんだ!」

 美雪はエレベータを降り、反応の悪い出入口のセキュリティーゲートに自分のネームプレートを何度も押し当て、会社のビルを飛び出すと、タクシーに乗り込み半田製作所へと向かった。

 

 半田製作所に美雪が着いた時、すでに数台の消防車が工場に向かって放水を行っていた。辺りには焦げ臭い匂いが充満しており、美雪は思わずハンカチで口を覆った。火は鎮火しているように見えたが、時折、何かが爆発するような音が聞こえた。

「みゆきさん……」

美雪は、工場を取り囲む大勢の人間の中に、連絡を受けて先に駆けつけていたみゆきの姿を見つけた。みゆきは真っ黒に焦げた工場を震えながら呆然と見つめていた。

「みゆきさん! 現太さんは? 現太さんはどこなの!」

 みゆきは震える手で今にも崩れ落ちそうな工場を指さし、その場に崩れ落ちた。

「あの中に、現太さんがいるのね?」

 みゆきがうなだれるように頷いた。それは現太の身に起きた最悪の状況を示唆していた。

「現太さん……今、行くわ」

 美雪はそう呟くと、とっさに工場の建物に向かって駆け出した。

「おい! こら! まだ入っちゃいかん! 火が完全に消えたわけじゃないんだぞ! こら! だめだ! 建物が崩れたらどうする!」

 美雪は消防士たちの制止を振り切り、建物の中へと飛び込んでいった。美雪の姿は煙に阻まれてあっという間に見えなくなった。

  ―ギューン、バーン―

  美雪の姿が建物の中に消えて間もなく、甲高い乾いた爆発音とともに工場の屋根が吹き飛び白煙が舞い上がった。炎が再び燃え上がり、消防隊は慌てて放水の的をそこへ集中させた。

「火を消すんだ! は、早く、中の人間を助けるんだ!」

  ―ガシャーン、バリバリバリ―

  その時、破滅を思わせる音とともに工場の一部が崩れ落ちた。それを見た消防隊員たちは、言葉を失い呆然とその場に立ち尽くした。

「可愛そうに……」

 誰かが、ぽつりと呟いた。目の前で起きた悲劇に誰もが涙した。群集の間を嫌な沈黙の空気が流れた。どこからともなくすすり泣く声が聞こえた。ほんの数分間の出来事だったに違いない。しかし、とても長い時間が過ぎたように思えた。

 遠い昔、『いのち』が儚く悲しいものだと言うことを、ひとりの少女によって教えられた。そして今、それが変えようのない事実であることを、繰り返された悲劇によって思い知らされた。

 それを、二人の運命だと言うのなら、人が神を信じることに一体何の意味があるのだろう。人は何を祈ればいいのだろうか。

 それでも人は神に祈る。奇跡という名の慈悲を求めて……。(つづく

 

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