「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-4-

 幸太郎が倒れた。

 美雪が現太に妹がいたことを知った四日後、十二月に入って日本列島を覆う寒波が本格的な冬の訪れを告げた頃、美雪は会社での午後の会議中に突然その知らせを聞いた。

「美雪くん、す、すぐに東京第一病院に行きなさい」

 美雪を会議室の外に呼び出した青山は少し慌てた様子だった。

「何かあったんですか?」

「社長が倒れて病院に運ばれたそうだ」

「えっ!」

「詳しいことは分からないが、来賓として出席していたパーティーの席で突然倒れて、そのまま東京第一病院に運ばれたということだ」

「父が……」

「このことはまだ一部の人間しか知らない。私も後から向かうから、とにかく美雪くんはすぐに病院に向かいなさい。下にタクシーを待たせてある」

 青山は手に持っていた美雪のハンドバッグを差し出した。

「は、はい。ありがとうございます」

 バッグを取りに行く時間も惜しまれるほど、幸太郎の容態は悪いのだろうか。美雪は青山の用意したタクシーに乗り込み、急いで病院へと向かった。

「お父さま……」

 膝の上で握りしめたハンカチを見つめながら美雪は呟いた。確かに、社長に就任してからの幸太郎は、前にも増して多忙な毎日を送っていた。そのことを、美雪も気にはしていたがついつい見過ごしてしまっていた。もっと、幸太郎と言葉を交わしておけばよかった。そうすれば、何か幸太郎の身体の異変に気付いてやることが出来たかも知れない。

 幼い頃、佳恵に叱られて落ち込んでいた時も、思春期、学校で友達と喧嘩して部屋に閉じこもってしまった時も、幸太郎の掛けてくれた言葉でいつも元気になることができた。幸太郎はいつも自分のことを見ていてくれた。今さらながら、美雪は父の存在の大きさを実感していた。それなのに自分はそんな父親のことを何も見ていなかった。父の笑顔の裏で何が起きていたのか、気付こうともしなかった。何より、自分のことしか考えていなかった自分自身を美雪は許せなかった。

 

 医者の応急処置により、幸太郎の病状は大事には至らなかった。ただ、「美雪、村上さんと一緒に先に家に帰りなさい」そう言って、医者とともにカウンセリングルームに入って行った佳恵の不安そうな表情が気になった。

「お嬢さま、旦那さまの具合、大事に至らなくてよろしゅうございました」

 帰りの車の中、村上はルームミラーの中に美雪の姿を探しながらそう言った。

「プーさんにもご心配をおかけしちゃったわね」

「いえ、私のことなど……それより、お嬢さまは大丈夫ですか? お疲れではありませんか?」

「ええ、安心したら何だか眠くなってきちゃった。お母さまはお医者様と何をお話ししているのかしら……」

「きっと、入院の手続きとか、事務的なお話ではないでしょうか」

「そうかしら……」

「どうぞ、お自宅に着きましたらお声掛けしますので、ご心配なさらずにゆっくりお休み下さい」

「そうね。そうさせて貰おうかしら。ごめんなさい」

 村上は美雪の眠る姿をルームミラーで確認すると、かけていたラジオのスイッチを消した。そして、まだ幼かった頃の美雪の姿を思い浮かべた。幼稚園で駆けっこをしたり、お友達とはしゃぎ過ぎた日の帰りは、美雪はこうして村上の運転する車の後部座席で、体に合わないシートベルトをしたままよく居眠りをしていた。二十年も離れていたが、そして美雪は立派な令嬢となったが、こうしてこのご主人様と、あの頃と何も変わらない二人だけの時間をまた一緒に過ごせる幸せを、村上はお腹の上に乗ったハンドルを握りしめながら感じていた。

 

 翌日、午前中だけ仕事をして美雪は幸太郎の入院している東京第一病院に向かった。病院に着いてみると、そこには佳恵と右手で突いた杖に自分の体の重さを預けながら何やら深刻な顔で話す世之介の姿があった。

「あら、お爺さまもお見舞いに来てくださったの?」

 遠くから掛けた美雪の声に、二人は少し慌てたように笑顔を取り繕った。

「おお、美雪か、幸太郎くんは眠っているので、佳恵と私は一旦家に戻るが、お前は幸太郎くんの傍にいてやってくれるか?」

「あ、はい。午後はお休みを頂いたのでずっといるつもりよ」

「うむ、それがいい」

「美雪、じゃあ、幸太郎さんのこと頼んだわね」

「え、ええ」

 隠居して昔に比べ随分と性格が丸くなったとは言え、“傍にいてやってくれ”などという弱々しい言葉が、世之介の口から出たことに美雪は妙な違和感を覚えた。

「お母さま?」

 美雪は帰りかけた佳恵を呼び止めた。

「お母さま、お父さまは何の病気なんですか? ただの過労ではないのですか? 何か悪い病気なのですか?」

「お父さん、先に車に行っていてください。私は美雪と少し話してから行きますので」

「ああ、そうだな。それがいい」

「美雪、ここでは何ですから……」

 そう言って、佳恵は美雪を誰もいない、中庭の見渡せる患者のために用意された病院の休憩室に連れ出した。そこで美雪は、佳恵に言われ、二人分のコーヒーを自動販売機で買った。近くの椅子に腰を下ろし、佳恵は両手でカップを持ったまま何か思いつめたように、中で小刻みに揺れるコーヒーを見つめていた。

「お母さま、大丈夫?」

 心配した美雪が佳恵に声を掛けた。

「ええ、大丈夫よ」

そう言うと、佳恵は冷めかけたコーヒーをひと口だけ飲んだ。

「美雪、落ち着いて聞くのよ。幸太郎さんの病気は……」

 佳恵は次の言葉を口にすることが辛そうだった。佳恵の目からこぼれ落ちた涙が、持っていたカップの脇を霞めて膝の上に落ちた。

「すい臓のがんなの。先生からは余命三ヶ月と言われたわ」

 佳恵は肩を震わせながらようやくその言葉を口にした。

「え? 嘘、嘘よ、嘘なんでしょ。だって、ただの過労だって先生はおっしゃってたわ」

「私だって信じたくありません。でも、検査結果は間違いないと……先生はそうおっしゃっているの」

「信じない。私、信じない。お父さまは病気なんかじゃないわ。例え病気でもきっと治るわ。いえ、私が治す。必ず治して見せるわ。だって、お父さまがいなくなったら私どうすれば……うっ、うう」

「美雪……」

 佳恵は自分の娘でありながら、美雪が冷静で頭のいい子であることを知っていた。その娘が今、父親の死に直面して冷静さを失い、出来もしないことを言って子供みたいに駄々を捏ね泣きじゃくっている。佳恵は美雪のその姿に涙した。

 しばらくして、美雪はひとりで幸太郎の病室までやって来た。美雪は佳恵と別れここへ来るまでの間、自分の涙を拭き、鏡に向かって笑顔を作った。しかし、幸太郎の顔を見たら、せっかく作った笑顔が消え、急にまた涙が溢れ出てきた。

「美雪か?」

 病室に入って来た美雪を見つけて幸太郎が言った。

「お父さま、お目覚めになったのね。今、お爺さまとお母さまをお見送りして来たところよ」

 美雪は幸太郎に顔を見られないようにして、病室の中の狭い洗面台の前に立った。

「佳恵とお義父さんも来ていたのか? 私はいったい……」

「覚えてないの? 昨日、パーティーの席で倒れて、そのまま病院に運ばれたのよ」

 化粧を直すふりをして涙を拭いた。

「倒れた? 私が?」

「ええ、でも、安心して。ただの過労ですって。少し入院が必要だけど、検査が終わればすぐに退院できるって、お医者様がそうおっしゃっていたわ」

「そうか、皆に心配かけてしまったね」

「会社の方は大丈夫だからって、お母さまや幹部の方たちもおっしゃっていたわ。だから、心配なさらないで」

「そうだな。このところ少し無理をし過ぎたようだ。しばらく仕事を休ませてもらうとするか」

「それがいいわ」

 ようやく作り直した笑顔を見せ、美雪は幸太郎のベッドの横に腰を下ろした。

「こんなことでもなければ、お前とこうしてゆっくり話をすることもできなかったかもな」

「そうね。お父さまと二人きりで話すなんて随分と久しぶりかもね。お父さま、少し、ベッドを起こしましょうか?」

「ああ、そうだな」

 美雪は幸太郎が話しやすいように、リモコンを操作してベッドを少しだけ起こした。

「昔、お前が幼稚園に行っていた頃、私の書斎でいろんな話をしたね。お前は私の膝の上に乗って一緒に本を見ながら……」

「ふふふ、やだわ、お父さまったら、もう二十年も前のことよ」

 再び涙が溢れそうになり、美雪は思わずそれを可笑し涙に変えてハンカチで拭った。

「そうか、もう二十年も経つのか。早いものだな」

「もうお父さまの膝の上には乗れないわよ。私の方が背が高いもの」

 涙はまだ止まりそうになかった。

「ふふふ、そうだな」

 幸太郎は美しく成長した自分の娘をうれしそうな、それでいて寂びそうな、そんな目をして見つめた。

「今日は冷えるわね。お父さま、寒くない?」

「ああ、大丈夫だよ」

「あら? 風花が舞ってるわ。どうりで寒いわけよね」

 涙を堪えきれず、美雪はそう言って幸太郎に背を向け、窓越しに空を見上げた。

 いつもやさしいお父さまは、ずっと一緒にいてくれると思っていた。父の膝の上で聞いた、勇者ペルセウス神の話を思い出した。おじいさんが作ったお箸の話を思い出した。父の書斎で過ごした二人だけの時間が美雪の脳裏に走馬灯のように蘇った。

 大人になるということは何かを失うということなのだろうか。げんちゃんも、幸太郎も、美雪にはもうあの時のように微笑んではくれないのだろうか。(つづく

 

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