「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-1-
もうひとりのみゆき
美雪が航の見せた蛇に驚いて気を失う騒ぎがあってから、ひと月ほどが過ぎたある日、美雪を訪ねてシゲが五葉電機にやって来た。
「やあ、美雪さん、突然呼び出したりして悪かったね」
二階の受付前に設置された待合スペースに、自分の姿を見つけて走り寄ってきた美雪に向かってシゲが言った。
「いえ、今日は仕事も早く終わって、ちょうど帰り支度をしていたところなので……。まだ少し早いけど、エレベータが混む前に一足先に降りて来ちゃいました」
美雪は自分の腕時計に目をやり、終業時間にはまだ十分ほど早いことを確認しながら言った。
「美雪さんって、普段は何階にいるの?」
「三十階の南側のオフィスです」
「ひぇー、三十階? そりゃ、もう雲の上だね」
「シゲさんや現太さんのいる、半田製作所も良く見えますよ」
「いやーお恥ずかしい。古臭いおんぼろビルで……。あっ、そうそう、その現太のことで来たんだ。いやね、大したことじゃないんだけど、この前、美雪さん、気にしていたようだったから……」
シゲと美雪は、とりあえず近くにあった椅子に腰かけて話すことにした。ノー残業デーということで、家族の待つ家に足早に急ぐ者、これから呑みに行く者、合コンに向かう者……。高層ビルのエレベータから、次々と溢れ出てきた五葉電機の社員たちが、作業服のままのシゲと私服に着替えた美雪の奇妙な取り合わせに不思議そうな視線を送りながら、待合スペースの横を通り過ぎて行った。
「美雪さん、この前、うちの社長に聞いたんだけど、現太のやつ、東京生れって話、どうも違うらしいよ」
「え? でも……」
「そう、そうなんだよ。前に現太に聞いた時はさ、東京だって確かにそう言ってたんだよ」
「違うんですか?」
「うん。先週の金曜日、会社の帰りにさ、社長が久ぶりに呑みに連れて行ってくれたんだけど、社長、その日は呑み過ぎたんだか昔の話をペラペラとよく喋ってさ。“うちの会社は昔、五葉さんを助けたことがあるんだぞ”なんて、見え見えのほら吹きやがって。まあ、その話はどうでもいいんだけど……」
美雪は半田社長の言うことがほらでないことを知っていた。
「だからさ、これも本当かどうか怪しいんだけどね。どうも現太は、昔、五葉電機さんの本社があった、えーと、なんて言ったかな……ほら、大きな川があるでしょ?」
「熊野川のこと?」
「あっ、そうそう、熊野川。どうもね、そこいらの出身らしんだ」
「えっ! 本当ですか!?」
その場に立ち上がり、驚いて思わず出した美雪の大きな声に、帰りを急ぐ社員たちが一斉に振り返った。
「あ、いや、だから、本当かどうか分からないんだけど、社長のやつ、やけに詳しいこと言うんでね、こりゃ、本当なんじゃないかって。そう思ったってわけさ」
まるで幼稚園の子供をなだめるかように、シゲは美雪を椅子に座るよう手で促した。
「もしかして、小さな村の生まれ……とか?」
少し落ち着いた美雪はゆっくりと椅子に座り直した。
「そう、え? 何で美雪さん知ってんの?」
「い、いえ、何となく……」
「何でも、そこで現太の叔母さんらしい人と二人で暮らしていたんだって。何か、具体的でしょ? 話が」
「他に、他には何か仰っていませんでした? 社長さん」
「いやーそれが、俺はあいつの父親代わりなんだ。そう頼まれたんだって。そればっかり。そのうちそのまま酔い潰れちまって。後で家まで送り届けるのが大変だったよ」
「…………」
「美雪さん? どうかしたの?」
(げんちゃん、やっぱり現太さんはげんちゃんだったのね。この前話した時、知らないと言っていたけれど、二十年も前の話ですもの、現太さん、きっと忘れてしまったんだわ。でも、もう一度ちゃんと話せば、絶対に思い出してくれるわ。そうよ。私をおぶってくれたことだって絶対に思い出してくれるわ)
「美雪さん?」
一点を見つめ、心ここにあらずといった美雪にシゲが心配そうに声を掛けた。その声に我に返った美雪が、机の上で指を組んでいたシゲの手を取った。
「シゲさん、ありがとう。私、現太さんに伝えてくる。私が美雪だってこと、ちゃんと伝えてくるわ!」
そう言うと、美雪は会社を飛び出して行った。
「み、美雪さん! あーあ、行っちゃった」
ひとり取り残されたシゲは、美雪の走り去った方を見つめながら残念そうに呟いた。
「私が美雪だって、どういう意味なんだ? 現太は美雪さんの名前知らなかったんだっけ? それとも忘れちゃったのか? いや、そんなはずないか、同じ名前だもんな、みゆきちゃんと……」
みゆきちゃんとは誰のことなのか、シゲはそろそろ居づらくなった大会社の広いロビーから出ることにした。
シゲを置き去りにして会社を飛び出した美雪は、通りがかったタクシーを捕まえて既に半田製作所へと向かっていた。帰宅時のラッシュで道が混み、到着まで通常の倍の時間がかかった。現太はまだ会社にいるだろうか、支払いを急いで美雪はタクシーを降り、半田製作所の正門が見える少し離れた場所で現太の姿を探した。工場を持つ半田製作所にはノー残業デーは関係ないらしい。その日の勤めを終えた者、夜勤に向かう者、半田製作所の正門を大勢の人間が出入りしていた。
「あっ!」
その中に美雪は現太の姿を見つけた。一刻も早く伝えたい。自分はあの時の美雪です。げんちゃん王子のことが大好きだった美雪なんです。逸る気持ちを抑えきれず、美雪は人波に押されながら、足早に近寄って現太を呼び止めようとした。
「現太……」
「げーんちゃん!」
その時、美雪が現太に掛けたその声を打ち消すように、見知らぬ若い女が現太の名前を呼び、馴れ馴れしく現太の腕を取ってそれにしがみ付いた。美雪は思わず近くの建物の陰に身を隠した。
「おっ、何だ、お前か」
(お前? 誰?)
「何だはないでしょ。げんちゃんの帰りを待ってたのに。ね、今夜のご飯、何がいい?」
(今夜? 誰なの?)
「何がって、どうせスーパーの総菜だろ?」
「いいじゃない。いっしょに食べれば何だって美味しいでしょ?」
(いっしょに? あなた誰なの?)
「ばーか、そんなの言い訳にもならねえ」
「ふふ。ねぇ、いつものヤオ丸でいい? 今日、サンマが安いんだ」
「ははは、また、サンマか。たまには肉が食いてえなぁ」
(笑った……現太さんの笑った顔、初めて見た)
「ボーナスが出たらね」
「まあ、しょうがねえか。我慢すっかぁー」
(あんなに楽しそうな顔をする人なんだ。私、知らなかった……)
「さあ、行きましょ。ふふふ」
「こ、こら、腕を引っ張るなよ」
(誰? その人、いったい誰なの?)
美雪の心の叫びとも取れるその問いかけに、もちろん現太が答えるはずはなかった。美雪は自分の目の前を通り過ぎていく現太と若い女を呆然と見送った。現太の好みなのだろうか、セミロングの美雪とは違い、ショートカットがよく似合うかわいらしい女性だった。
考えても見なかった。現太に恋人がいることなんて。いや、恋人などではなく、話の素振りからして二人は結婚しているのかもしれない。もしかしたら、子供だって……。普段、女になんて興味なさそうに不愛想な顔をしているのは、もうすでにあんな素敵な笑顔を見せる相手がいるからなのだろう。奥さん以外の女に興味を持つ必要なんてないのだ。奥さん以外の女なんかに……。
美雪はその日どうやって家までたどり着いたのか、正確に思い出すことが出来なかった。恐らく、いつものように電車に乗り、いつもの駅で降り、いつもの道を歩いて帰ってきたのだろう。しかし、ものすごく長い時間をかけてようやく家にたどり着いたような気がした。きっと、乗る電車を何本もやり過ごし、駅の中を当てもなくさ迷い続け、駅から歩くいつもの道が、溢れる涙で霞んでよく見えなかったので、何度も立ち止まってハンカチを目に押し当てていたせいなのかも知れない。
二十年という歳月は、げんちゃんを思い出のままにしておくにはあまりにも長すぎる時間だった。(つづく)
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