「めぐり逢う理由」 (第五章 別れの予感)-3-
「現ちゃん、美雪さんに会ってあげたら? 美雪さんお父さまを亡くしてきっと悲しんでいるわ。会って励ましてあげなよ」
いつもの日曜日のように、子供たちの野球の練習に行こうと玄関で靴ひもを結んでいた現太にみゆきが後ろから声を掛けた。
美雪が入院している時、美雪の具合が気になりこっそり見舞いに行ったはずが、シゲとみゆきに冷やかされ、逆に美雪を怒鳴りつけてしまったあの日以来、現太は美雪に会っていなかった。いや、一度だけお互いの姿を確認していたが、それはやはり会ったということにはならないのだろう。
社葬として行われた幸太郎の葬儀の際、半田製作所を代表して社長の半田以下、数名の役員が参列した。その中に現太の姿があった。
半田は幸太郎の意を汲んで現太には詳しい話をしなかった。
「現太、お前も来い」
他の役員を差し置いて自分が葬儀に参列することに僅かながらの違和感を覚えた現太だったが、現太にしては珍しく半田の言いつけに素直に従った。大勢の弔問客に紛れて現太は美雪の姿を目で探していた。そして、葬儀を取り仕切る、会社の総務の人間の後ろに控える美雪の姿を見つけた。美雪は涙ひとつ見せず気丈に振舞っていた。その横で憔悴しきった様子の佳恵の方が、今にも倒れてしまいそうでそちらの方が心配された。
現太が献花した時、美雪は遠くから深々と頭を下げた。その時の美雪の落とした涙に気づいた者は誰もいなかった。
「社長が亡くなって、羽振りの良かった五葉さんもこれから大変になるね。栄枯盛衰、大企業の火も今や風前の灯火だね。」
弔問客の間からは、そんな心無い声が聞こえてきた。
「五葉電機は厳しいのか?」
葬儀の帰り道、現太が半田に尋ねた。
「まあ、かなり厳しくなるだろうな。佳恵さん一人ではどうにもな」
「そうか……」
現太は五葉電機を心配したわけではなかった。それを背負っている美雪を案じてそう尋ねたのだった。
「げんちゃん、ねえ、会ってあげなってば」
靴ひもを結ぶ手が止まっていた現太にみゆきがもう一度言った。
「俺なんかに何ができるっていうんだ。あいつは五葉電機の三代目だ。今は会社を立て直すことに必死なはずだ。俺にできることなんか何もねえよ」
「そんなことないわ。現ちゃんが傍にいてあげるだけで、美雪さんはきっと心強いと思うわ」
「分かったようなこと言うな! あいつは、あいつの世界で幸せになるのが一番なんだ。俺なんかと関わらない方がいいんだ!」
「現ちゃん……」
現太は苛立っていた。何に対して苛立っているのか、それは現太自身にも分からなかった。恐らく、自分の不甲斐なさに苛立っていたのだろう。
無謀とはいえ、自分を助けるために女の美雪が命がけで工場に飛び込んできた。そして、体にメスを入れなければならないような傷まで負った。ほんの短い間、それも二十年も前に、ただいじめっ子から守ってくれただけの男を美雪は自分の命を懸けて守ろうとした。それに引き換え、今度は美雪が苦しんでいるのに何もできない自分が現太は情けなかった。みゆきが現太の気持ちを察したのか、心配そうに現太の顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい。余計な事言って」
「い、いや、俺の方こそ悪かったな、怒鳴ったりして」
「げんちゃん、私ね」
「ん?」
「ずっと考えていたんだけれど……。私ね、昔の私に戻るわ」
「何だ? 急に。昔の私って、お前……」
「みゆきって名前、私が昔のことを思い出さないようにって、せっかく現ちゃんが変えてくれた名前だけれど、私はもう大丈夫。美雪さんのおかげで私は強くなれたの。美雪さんが現ちゃんを想う気持ちは本物だわ。怒らないでね、これは私の勘よ。美雪さんはずっと前から現ちゃんとめぐり逢う日を待っていたんじゃないかしら。ううん、子供の頃からとかじゃなくて、もっともっと遠い昔よ。その遠い昔に二人は出会っていたのよ。そして、そこにはきっと私もいたんだわ。美雪さんと初めて会った時、私、美雪さんに意地悪なこと言っちゃったけど、何故かそれがとても懐かしかったの。そしてその時、“あーとうとう現ちゃんを取られちゃうんだなぁ”ってそう思ったの」
「みゆき……」
「ううん、もう、今日からはみゆきじゃないわ。早苗、片山早苗。それが私の名前。お母さんがつけてくれたのよね? この名前。過去のことも全部含めて私は私なんだもの。私は何があっても、これからはこの名前で生きていくわ」
現太はみゆきの決心は本物だと思った。そしてそれがうれしかった。不幸な過去を消すことはできない。しかし、それを忘れるくらい幸せになることはできる。過去に目を背けて生きるのではなく、過去も含めて幸せになることが大切なのだ。そして、時の流れがきっと早苗をそこへと導いてくれるだろう。
遠い昔に出会っていた。早苗にそう言われた時、現太はそれを否定することができなかった。しかし、どんなに昔の記憶を辿ってみても、美雪と初めて会ったのは、二十年前二人ともまだ子供だった頃、美雪の通う幼稚園でしかあり得なかった。
ただ、美雪を想う時、いつもあの橋のことが頭をよぎる。村の人たちが虹橋と呼んでいたあの橋が、二人にとっては何故かとても大切な場所に思えてならなかった。美雪とは、まだ一度も一緒に行ったことがないはずなのに。それは、確かにそのはずなのに……。
六月も半ばを過ぎた頃、現太が社長の半田のところにやってきた。
「現太、これは何の真似だ?」
現太が机の上に置いた辞表を半田は顎で突き返して言った。
「社長、火事で壊れた工場や機械がやっと元通りになった。明日から、半年ぶりにようやく稼働できる。俺は、工場を復旧させるまでは辞められねえと思って今日までやって来た。でも、工場の火元責任者は俺だ。それに良樹を危ない目に会わせちまったのも俺の不始末だ。俺は責任を取って会社を辞めさせてもらう」
「誰も、お前のせいだなんて思っちゃいねえよ」
「おれが、良樹を工場に連れて行かなければ良樹はあんな危ない目に合わずに済んだ。会社の規則を破った、俺の責任だ」
現太はそう言うと、半田の目の前に再び辞表を差し出した。
「現太、これでいいのか?」
半田は現太を辞めさせるつもりはなかったが、現太が一度決めたことを変えることはないことも知っていた。
「ああ、もう決めたことだ」
「そうか」
半田は現太の辞表を受け取った。
「これからどうする?」
「社長」
「親父でいい。俺はお前の親父だ」
「そ、そうか。そんじゃ親父、早苗は、あいつはもう一人でも大丈夫だ。だから、俺はあいつと離れて暮らすことにした。それが、あいつのためだと思うんだ」
「帰るのか? 故郷に」
「俺は故郷(あそこ)に何か忘れ物をしてきちまったような気がする。もう一度、あの場所から始めようと思うんだ」
「美雪さんには黙っていくつもりか?」
「あいつは五葉電機の三代目だ。所詮、俺なんかとは住む世界が違うのさ。あいつは、あいつの世界で生きていくことが幸せなのさ」
「住む世界が違う……か、お前でもそんなこと言うんだな」
「おかしいか?」
「いや、やはり幸ちゃんの想い過ごしだったか……」
「こうちゃん? 想い過ごしって何のことだ?」
「いや、何でもない。それより子供たちはどうする? お前がいなくなっちまったら誰が野球の練習見てやるんだ?」
「子供たちのことはシゲに頼んだよ。あいつ、ああ見えて本当は子供好きなんだよ。俺に遠慮して今まで口を出さなかったらしいが、今度の地区大会は絶対に初戦突破してやるって息巻いていたよ。あいつなら、俺も安心して子供たちのことを任せられる。シゲも早苗も子供たちも、皆幸せになってくれるといいんだが……」
「現太、お前もひとのことばかり心配していないで、少しは自分の幸せを考えろよ」
「ああ、そのうちにな」
「現太、元気でやれよ」
「親父、お世話になりました。ありがとうございました!」
頭を下げ部屋を出て行く現太を、半田はじっと見つめていた。
「幸ちゃん、これで良かったのかなぁ。結局、俺は現太に何もしてやれなかった。あんたに頼まれたのに、父親らしいこと何一つしてやることが出来なかった……」
半田は自分の拳で机を叩いた。
梅雨時のじとじととした雨が、半田のいる社長室の窓を濡らしていた。涙雨はしばらく止みそうになかった。(つづく)