「めぐり逢う理由」 (第四章 もうひとりのみゆき)-2-

 五葉電機では製品管理の効率化とコスト削減のため、自社の製品に使用する部品は、総合マテリアル事業部という資材発注業務を専門に行う部署が一括して管理していた。半田製作所への部品の発注や受け入れも、この総合マテリアル事業部が行っている。

 総合マテリアル事業部の一番の使命は、製品コストを抑えるために下請けに発注する部品の価格を徹底的に買い叩くことだ。下請け会社の中には小さな町工場も少なくなかった。そういう町工場は、利益がほとんどでないところまで買い叩かれても、仕事が貰えないよりはましだという理由で、総合マテリアル事業部の発注担当者に言われるままに契約するしかなかった。必要以上にコストを下げれば品質が落ちるのは当然だ。そう訴えても、担当者から返ってくる言葉は「下請けが生意気言うな」だった。

 半田製作所も町にある工場には違いがなかったが、それなりに規模が大きい上に製品特許も数多く保有している。だから、総合マテリアル事業部の発注担当者の言うことを「はいそうですか」と素直に聞くような、五葉電機から見れば決して優等生な会社ではなかった。「嫌なら他を当たれ」社長の半田雄介にそう言われる度、総合マテリアル事業部の発注担当者は苦虫を噛み潰したような顔になる。

 

―「嫌なら他を当たれ!」―

 

 応接室のテーブルを叩いて、半田雄介は五葉電機の発注担当者の成瀬に向かって怒鳴った。

「半田さん、他の会社はみんなこの条件で納得してくれていますよ。うちも今、苦しいんでね。何とかご理解頂けないでしょうか」

 自分の息子ほどの歳の若造が、いくら立場が上だからといって目上の人間に対して僅かばかりの敬意も示さない、その態度にも半田雄介は怒っていた。

「いいか、他所は知らねえが、うちは品質を落としてまでコストを下げるようなまねはしねえ。お前じゃ話にならん。戻って、おまえの上司を連れて出直して来い」

「いいんですか、そんなこと言って。仕事なくなっちゃいますよ」

「てめえ、二度と顔を見せるな! 帰れ!」

 五葉電機に限らず、世間知らずの生意気な社員はどこにでもいるものだ。自分よりも立場の低い人間を見下すことで、薄っぺらなプライドを保っている。そもそも上とか下とか、この場合それは会社の大きさでしかない。大きい会社の社員だから小さい会社の社員が自分よりも下だと思い込んでいる。

「けっ、下請けのくせに……」

 半田製作所を追い出されるようにして正門を出てきた成瀬は、お気に入りの恐竜柄のネクタイを首から外すと、その正門に向かって唾を吐き捨てた。

 五葉電機の社員は総じてプライドが高かった。無理もない。一流大学を出て一流の会社に入った、世間一般から見ても選ばれた人間であることは間違いない。新入社員の初任給も半田製作所の新入社員の二倍はあった。それは、入社して十年近く経つ現太やシゲの給料よりも多かった。成瀬のように露骨に態度に表わすことはしないまでも、心のどこかでは下請け会社の社員を見下していたのかも知れない。それは、決して社長の幸太郎の意識が社員たちにそうさせていたわけではなかった。会社の規模が大きくなりすぎた五葉電機は、もはや社長の思いが役員や末端の社員にも伝わることはなかった。すべては株主のために働いて、その対価として給料を貰うだけの会社になり下がった。一見、チームワーク良く働いている社員たちの絆も、裏を返せば自分の出世のためにお互いがお互いを利用しているにすぎなかった。いつか、青山が街のチンピラに殴られた時も青山を助けようとしたのは美雪だけだった。青山と長い付き合いのあるはずの部下たちは誰も助けようとはしなかった。ここでリスクを冒して青山を助けることが、自分の利益になるのかどうか頭の中で必死に計算していたのだろう。入社前、美雪が思い描いていた、もしくは、幸太郎が呑んで楽しそうに幼かった頃の美雪に話してくれたような古き良き会社の姿はどこにもなかった。

 会社に戻った成瀬は、半田社長とのやり取りを上司に報告した。

「参りましたよ、あの半田さんには。ぼくが一生懸命、丁寧に説明してあげて、頭下げて、あれほどお願いしたのに取り合ってもくれない。あげくの果てに“もう二度と来るな!”ですよ」

 成瀬の説明には嘘があった。いや、本当のことは一つもなかった。半田だって、最近の家電業界の厳しい現状を知らないわけがない。きちんと礼節を持って説明しさえすれば、品質を保つぎりぎりのところで妥協してくれたに違いなかった。

「一度断られたくらいで諦めるな。明日、もう一回行って来い! 何としてもコスト削減目標を達成するんだ!」

 半田が何故、首を縦に振らないのか、その本当の理由を確かめようともせず、成瀬の上司はコスト削減目標の数字のことしか頭になかった。それが、その上司の今年度の自身のチャレンジ目標だからだ。その達成の度合いがボーナスの金額に反映される。自分は労を払わず、部下を怒鳴って何としても目標を達成させる。そういう意味では、下請け会社の社長の前では態度のでかい成瀬も、この時、実は追い詰められていたのかも知れなかった。

 現太と現太に寄り添う若い女を見かけたあの日以来、美雪はすっかり元気をなくしていた。楽しみにしていた週末の野球の練習にも顔を出さなくなっていた。

 そんなある日、美雪は街で偶然母親に連れられた航に会った。

「あっ! お姉ちゃん!」

 そう叫んで航が美雪に走り寄ってきた。それを追って後から母親がやって来た。

「お姉ちゃん!」

 航は美雪に抱き着いた。

「すみません。航、だめでしょ! 知らない人にそんなことして」

 航の母親が初対面の美雪に謝った。

「いえ、私、航くんの野球チームの……」

 美雪がそこまで言うと、母親は航が美雪に抱き着いた理由が分かったようだった。

「あー、あなたが……。子供たちにレモンをくれたお姉さん?」

「はい」

「航がね、お姉ちゃんのレモンが美味しいかったって。ご親切にして頂いてありがとうございます」

「い、いえ」

「お姉ちゃん、野球の練習、どうして来てくれないの? もう、来てくれないの? 僕が蛇で脅かしちゃったから?」

「航! また何かいたずらしたの? 本当にすみません」

「いえ、そんなことないんです。ごめんね、航くん。お姉さん、ちょっとお仕事が忙しかったの」

「また、来てくれる?」

「う、うん……」

 美雪は少し困ったように頷いた。

「だめよ。航、お姉さんに無理言っちゃ」

「だって……」

「お名前、確か、みゆきさん……でしたわよね?」

「はい」

「みゆきさんが練習を見に来るようになって、この子、野球の練習に行くのが楽しくなったみたいで。帰って来ると、“今日はお姉ちゃんと手をつないだよ”とか、“お姉ちゃんに褒めてもらったよ”とか、みゆきさんの話ばかりするんですよ」

「そうなんですか……」

「お時間がある時でいいので、また、この子の練習を見に行ってやってください」

「は、はい」

「じゃあ、失礼しますね。航、行くわよ。お姉さんにさようならしなさい」

「お姉ちゃん、バイバイ」

「さようなら。航くん」

 航は、何度も振り返っては手を振り、美雪の姿を確認しながら帰って行った。子供たちにとって、自分は必要な存在なんだと美雪は思った。自分の都合で子供たちの純粋な気持ちを裏切ってはいけない。美雪は現太への想いを断ち切るためにも、あえてもう一度現太に会いに行こうと思った。それが美雪にとってつらい結果になるかも知れなかったが、現太の口から本当のことが聞きたいと思った。

 恋人や奥さんから現太を奪い取る自信も勇気もなかった。ただ、そうしたいほど現太のことが好きだった。子供の頃から、いや、もしかしたら、もっともっと、ずっと前から想い続けてきたげんちゃんがすぐ傍にいる。夢や幻ではない。手を伸ばせば触れることだってできる。誰にも渡したくない。

でも、それはもう遅かった。すべては遅すぎたのだった。(つづく

 

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