「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-6-

 翌日、その日は佳恵が会議を抜けられない日だった。つまり、美雪が幼稚園を早く帰れる日でもあった。早く帰れるということは、あのいじめっ子にまたちょっかいを出されなくて済むので、いつもの美雪ならその日は朝から嬉しくてたまらないはずであった。しかし、お掃除のおばさんが来るまで幼稚園にいられないということは、あのお兄ちゃんにも会えないということだった。

 美雪はさっき、いじめっ子に「おさきにしつれい!」って言ってやった。一人取り残されたいじめっ子は、寂びそうにブランコに揺られていた。いじめっ子のその姿を見た美雪は、少しかわいそうかなと思いながらも、そのいじめっ子には気づかれないようにして、いつものようにみ子ちゃんに会いに行った。

 佳恵が迎えに来られない日、美雪は必ずみ子ちゃんに会いに行く。村上は美雪が何をしているのかは知らなかったが、美雪が車にやって来るまでの間、忠犬のようにいつも大人しく車で待っていた。

「み子ちゃん、こんにちは。きょうは、おにわにさいてたおはなをもってきたわ。ほら、きれいでしょ?」

 美雪は小さな祠(ほこら)の前にいた。それはまるで、人々から忘れ去られたように幼稚園の建物の後ろにひっそりと建っていた。いつの時代に作られたものなのか、それを知る人は誰もいなかったが、忘れ去られた祠の中には小さな木彫りの観音像が祀られていた。そして観音像の脇には、『多み子』と書かれた木札がそっと添えられていた。

 美雪はひらがなの『み』と、よし子ちゃんとさち子ちゃんの『子』だけが読めたので、その小さな観音像の名前が『み子』というのだと理解した。

「み子ちゃん、ごめんなさい。まだ、はしのむこうにいけそうもないの。もういちど、なみちゃんにおねがいしてみるわね。だいじょうぶよ。しんぱいいらないわ。わたし、このところおねしょしていないもの……なみちゃんもきっとオッケーするわ。はやくみ子ちゃんのおかあさまにあえるといいわね」

 美雪は橋の向こうに見える巨大な観音様が、み子の母親だと思っていた。先日、幸太郎が土産に買ってきたコアラを小さい方が子供で大きい方がその親だと思ったように、四歳の子どもにとっては、同じ形をした物の大小が親と子の関係に思えたのだった。

 美雪は持ってきた花を水といっしょに小さなビンに差し入れると、おやつに貰ったビスケットをポケットから取り出して半分に割り、一つを観音像の前に置いた。

「半分だけでごめんなさい。ブランにもあげる約束しちゃったの。でも、これ、おいしいわよ。じゃあね、み子ちゃん、さようなら」

 しばらくして、美雪は村上の待つ車に戻ってきた。

「プーさん、きょうもあのおにいちゃんくるのかなぁ」

 幼稚園を出てしばらく走ったところで、美雪は運転手の村上に尋ねた。美雪は運転手の村上のことを『プーさん』と呼ぶ。もちろん、佳恵のいないときだけだ。どうして『プーさん』なのか、理由はそう複雑なものではなかった。運転席のハンドルのすぐ傍までせり出したお腹と、制帽をかぶってそこに座った村上の姿がくまのプーさんにそっくりだというのだ。

「さあ、どうでしょうね。昨日だけ、たまたま幼稚園に来たのかも知れませんね」

 村上も、奈美と同じようにこの家の使用人であることを忘れない。

「そうかなぁ」

「奥様にまた叱られますよ」

「だめよ、プーさん、おかあさまにはないしょよ。ね?」

 村上の忠誠心を確認するかのように、美雪はルームミラーに映った村上の顔を覗き込んだ。

「はい、はい。分かっていますよ」

 村上はこの小さなご主人様が好きだった。自分の娘を早くに亡くした村上は、立場は違うが我が子のような思いで接していた。

「プーさん、こんどおにいちゃんにあったら、わたしのかいた、おにいちゃんのえ、あげようかなぁ」

 昨夜、幸太郎に描いた絵を誉められた美雪は、お兄ちゃんもきっと喜んでくれると思った。

「そうですねぇ……」

 村上はこの前、車の窓越しにちらっと見えただけだったが、不愛想そうに見えたあの少年が美雪の絵を受け取ってくれるようには思えなかった。受け取りを断られた時、美雪の純粋な心が傷つくのではないかと思い、美雪に諦めさせるいい言葉を頭の中で探していた。

「そうですね、あのお兄ちゃんはきっと、照屋さんだと思いますよ。ですから、恥ずかしがって受け取ってくれないかも知れませんね」

「そうかなぁ」

 美雪は自分の描いた作品を広げてみた。そして、再びルームミラー越しに村上の顔を覗き込むと、すぐにまた広げた絵をくるくると巻いてしまった。

「やっぱり、まだ、あげないことにする。おにいちゃんのおかおをもうすこしちゃんとかいてあげないとかわいそうだもの」

「そ、そうですね。まだ、一度しかお会いしていませんものね。また、次の機会にした方がよろしいかと思います」

「うん、そうするわ」

 村上は美雪が諦めてくれてとりあえずはほっとした。そして、佳恵が言う通り、美雪はあの少年にはもうかかわらない方がいいのではないかと思った。それは、佳恵のように少年の身なりが気に入らなかったわけではなかった。まだ、十歳くらいの子供にしては何故かその目が、何か憎しみを秘めたようなそんな目に見えたからだ。(つづく

 

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