「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-1-

げんちゃん王子

 あの頃……。そう、美雪がまだ幼かった頃、美雪の住む町の外れに新しい橋が架けられた。

 美雪の住む町は、大手企業の進出などでこの二十年くらいの間に急速に発展した町だった。何棟もの高層マンションや巨大なショッピングモールもあり、鉄道やバス、幹線道路も整備されていた。

 そんな洗練された都会的な町の中でもひときわ目立つ、いわゆる高級住宅街の一角に美雪は住んでいた。そこは町の外れを流れる川を挟んで海側に広がっていた。そして、それとは対照的に川の反対側には、町の発展から取り残された小さな集落と田畑があり、その後ろには鬱蒼とした森と小高い山があった。何故か、その山の上には巨大な観音像が立っていた。その観音像に見守られるようにして、新しい橋は町と集落とを結び付けていた。

 町の外れに架けられたその橋は、新しい橋には違いがなかったが、そこに橋が架けられたのはこれが初めてのことではなかった。五年前、台風による洪水で元の古い橋は跡形もなく流された。過去に遡れば幾度か同じことがあった。恐らく、ここに初めて橋が架けられた時から、橋はその破壊と再生の歴史を繰り返して来たのだろう。再生されるたびに、橋はその時代の新しい技術で頑強になっていったはずだが、未だ自然の猛威にはかなわなかった。開通式を間近に控え、きれいに化粧されたこの橋もいずれ消えゆく運命なのかも知れない。

 橋の長い歴史の中で、これが何度目の再生なのかは分からなかったが、美雪が生まれたとき、先代の橋はすでに流された後だったので、美雪は古い橋がどんな橋だったのかを知らなかった。しかし、それはあまり心配することではなかった。およそ四百年の歴史を持つこの橋は、五年の歳月をかけ、現代の名工たちの手によってほぼ完璧なまでに伝統的な元の形に復元された。

―龍背大橋―

 橋の袂の看板も新調された。四百年間、常に自然災害と戦ってきた橋の歴史の中で、たった一度だけ龍背大橋は人の手によって壊されたことがあった。その時、不幸にも川に流され、亡くなった少女を供養するために山の観音像は建てられた。

 五年前に流された橋は、山に観音像が建立された三年後に完成したものだった。八十年近く風雨に耐えた橋は、千年に一度の巨大な台風によってあっけなく流された。

 

 美雪は五年ぶりに再建された橋の開通式の日、母親の目を盗んで橋の向こう側に渡る計画を練っていた。幼い美雪は橋まで一人で行くことができなかったが、美雪には信頼できる協力者がいた。美雪の家のお手伝いの奈美である。奈美は初め美雪の計画には乗り気ではなかったが、どうしても行くと言ってきかない美雪に押し切られた形で、渋々とこの計画を了承したのだった。

 美雪はその日、母親が出かける時間を運転手の村上に予め聞いておいた。母親が車で出かけたらすぐに計画を実行するつもりだった。万が一、番犬のブランが自分も連れて行けなどと騒いだりした時のために、美雪はおやつに貰ったクッキーを二つほど残しておいた。それを門と反対側に向かって思い切り遠くへ放り投げてやれば、きっとブランは美雪のことなど見向きもしないで無我夢中で食べに行くだろう。その隙に外に出てしまえばよい。

 準備万端、すべての手はずは整っていたはずなのに、美雪は開通式の前の晩に熱を出してしまい、計画はあえなく失敗に終わった。

「かいつうしき、もうはじまっちゃったかなぁ」

 額にのせられた氷嚢がずれないように、美雪は天井を見つめたまま、部屋に入って来た奈美に言った。

「ねぇねぇ、なみちゃん、やっぱり、かいつうしきにいっちゃだめ?」

 高校を出てすぐにこの家の使用人となり、もうすぐ二十歳の成人式を迎えようという奈美のことを、美雪は『なみちゃん』と呼ぶ。しつけに厳しい母親がいる前では決してそんな風に呼ぶことはないが、一人っ子の美雪が奈美のことを年の離れた姉のように思ってそう呼んでいたのか、それとも、同じ幼稚園に通う、よし子ちゃんや、さち子ちゃんと同じく、美雪にとってのお友達のなみちゃんだったのかはわからない。美雪は相変わらず眼だけで奈美を追っていた。

「そうですね、熱がおありになるお嬢さまを外に連れ出したりしたら、さすがに奥様に叱られてしまいますからね」

 奈美は美雪になみちゃんと呼ばれても、自分がこの家の使用人であることを忘れない。奈美は美雪の計画が失敗に終わり、内心ではほっとしていた。

「なみちゃん、はしのむこうがわにはなにがあるの?」

 美雪は開通式に行くことを半ば諦めて奈美にそう尋ねたが、

「さあ、何があるんでしょうね。うふふ……きっと、おとぎの国でもあるのでしょう」

 などと、奈美からは子供だましの返事しか返ってこなかった。

 美雪は、先日久しぶりにおねしょをしてしまったので奈美にまた子ども扱いされたのだと思い、それ以上、奈美を問い詰めることをあきらめた。でも、もしかしたら奈美が言うように、本当に橋の向こう側にはおとぎの国があるのかも知れない。

 奈美が氷嚢の氷を取り換えている間、美雪は前に一度だけ見せてもらった工事中の橋の様子を思い浮かべていた。そして、その時、橋の向こう側の山の上に見えた観音様と目が合ったような気がしてドキッとしたことを思い出した。

「み子ちゃんのおかあさんなの……」

「み子ちゃん? 誰ですか?」

「ううん、なんでもないわ。なみちゃん、おねつがさがったら、はしにつれていってね」

「さあ、どう致しましょう。奥様にお聞きしてみようかしら?」

「えー! だめよ、なみちゃん! おかあさまにはないしょにして」

「はい、はい、わかってますよ。まずはお熱を下げないとね」

 そう言いながら、奈美は美雪の額に新しい氷に取り換えた氷嚢を乗せた。

「ほんとうにいっちゃだめよ」

 美雪は自分の視界を妨げる氷嚢を恨めしそうに見上げた。

「はい、はい、わかりました」

 美雪は奈美の目を見て奈美の忠誠心を確かめようとしたが、額の氷嚢が邪魔になって奈美の姿を見つけることができなかった。

「なみちゃん、これ、もういらないわ」

「……」

「なみちゃん?」

 次の仕事が忙しい奈美はすでに部屋にはいなかった。(つづく

 

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