「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-3-
つい先日も久しぶりにおねしょをしてしまった、美雪はまだ四歳だった。
「お嬢様、もう起きて下さい」
「なみちゃん……」
美雪は布団からなかなか出てこない。
「どうしました? あっ! もしかして」
奈美が布団をめくると美雪の尻のあたりが丸く濡れていた。
「ごめんなさい」
「また、あの夢を見たのですか?」
「うん」
「困りましたね。一度、お医者様に診て頂いた方がいいかしらねぇ」
「おちゅうしゃはいやよ」
「大丈夫ですよ。お注射で治す病気じゃありませんから」
「びょうきなの? わたし」
「い、いえ、すみません。お嬢様は病気ではありません。ただ、同じ夢を何度も、それも嫌な夢を見るというのは、何か原因があるのではないかと思います」
「げんいん?」
「ええ」
幼稚園に通い出して間もなく、美雪はときどき川で溺れる夢を見るようになった。それがどこの川なのか、昼なのか夜なのか、誰かいるのか、それとも一人なのか何もわからない。決して苦しいわけではない。ただ、とても悲しいのである。悲しくて、そこから助け出して欲しくて誰かの名前を必死に叫んでいるのだが、それが誰なのか、何と叫んでいるのかまったく覚えていない。目覚めるといつも、美雪の目尻と尻は濡れていた。
「なみちゃん……」
「ええ、わかってますよ。奥様には内緒にしておきますよ」
本来なら母親にお尻を叩かれるところだが、お手伝いの奈美が佳恵には黙って美雪が濡らしてしまった布団を秘密裏に処理してくれていたので、これまでは何とか大ごとにならずに済んでいた。ただ、奈美はこのままでいいはずがないことを知っていた。いずれ、佳恵の耳に入れなくてはならない。奈美は美雪が布団に描いた地図をうちわで扇ぎながら、その時期とタイミングを思案した。
繰り返しになるが、祖父と母親の過大な期待を一身に背負い、奈美の言ったおとぎの国の存在を少しだけ本気で信じていて、たまにおねしょもしてしまう、美雪はまだ四歳だった。
父親の幸太郎だけはそのことを理解していた。将来、美雪には自分で選んだ道を歩ませてやりたかったし、今はまだ想像もしたくないが、結婚する相手も美雪が本当に好きになった相手と結ばれて欲しいと思っていた。しかし、それはまだずっと先の話だ。今はただ、元気でかわいい女の子でいてくれれば、幸太郎にとってはそれで十分だった。
美雪も祖父と母親が厳しい分、いつもやさしくしてくれる父親のことが大好きだった。「おおきくなったら、おとうさまのおよめさんになる!」それがこの頃の美雪の望みだった。
幸太郎は仕事の関係で海外出張が多く、美雪はその大好きな父親にはたまにしか会うことができない。だから、幸太郎が家に帰って来たときには、真っ先に玄関に駆け寄り誰よりも先に一番乗りで幸太郎を出迎えた。
「おかえりなさーい。おとうさま」
「ただいま、美雪。いい子にしていたかな?」
「はい!」
おねしょをしてしまったこと以外、何の落ち度もなかった美雪は堂々として答えた。
「ええ、お嬢様はとてもいい子でしたよ。ふふ。ねっ、お嬢様?」
後から玄関にやって来た奈美もそれを証明してくれたが、奈美の顔は少し笑っていた。きっと、“おねしょのことを黙っている代わりにいい子にしていなさいよ”とでも言いたいのだろう。美雪は、ほっぺたを膨らませて奈美を威嚇した。
「そうか、そうか、いい子にしていたか。それじゃ、美雪にはご褒美にこれをあげようかな」
幸太郎は日本に帰ってくる時は必ず、美雪に土産を買ってきた。それを渡した時の美雪のうれしそうな顔が見たくて、いつもその顔を想像して美雪の喜びそうなものを選んで買ってきた。
「おとうさま、ありがとう。これ、とってもかわいいわ」
幸太郎はアメリカから帰ってきたのだが、何故か小さなコアラのぬいぐるみを買ってきた。幸太郎にとっては、どこの土産かは関係ないのだ。美雪が喜びそうなものであれば、アメリカ土産にこけしでも買ってきたかもしれない。もっとも、アメリカにこけしが売っていればの話だが……。
「ほら、これはコアラだよ。幼稚園のバッグに付けると、きっとかわいいよ」
「うん、そうするわ。おおきいほうのコアラちゃんは、おかあさんコアラ?」
「ううん、それはお父さんコアラだよ。ほら、おなかに袋がないだろ? だから、それはお父さんコアラなんだよ」
幸太郎が美雪への土産にこれを選んだ理由がそこにあった。大抵の場合、こういったコアラのぬいぐるみは、母親の育児嚢の中から子供が顔を覗かせているものが多いが、たまたま立ち寄ったおもちゃ屋で見つけたこのぬいぐるみは、何故か育児嚢を持たない、つまり父親のコアラが子供を抱っこしたものだった。これを手にした瞬間、幸太郎は動物、特にコアラが大好きな美雪への土産は、これ以外ないと確信した。
「美雪、後で私の部屋においで。それをバッグに付けてあげるから」
「うん」
幸太郎は美雪をひょいと抱き上げると、代わりにスーツケースを奈美に預け、義父の待つ居間へと急いだ。
「ただいま帰りました」
「おう、幸太郎君、帰ったかね? んっ、んー、ぶっふぉん」
父親に甘える美雪を見て世之介は一つ咳払いをした。
「美雪、お父様とおじい様はこれからお仕事の話をするから、美雪は自分の部屋に行っていなさい」
「はーい」
幸太郎に呼ばれてやって来た奈美が、美雪を連れて居間を出て行った。
「幸太郎君、美雪を少し甘やかしすぎじゃないか?」
「申し訳ありません」
「美雪には誰にも頼らず、自分で道を切り開くような強い人間になって欲しいのだ。そうでないと、我が社の将来は危うい。そうは思わんかね?」
「はい、以後は気を付けます」
幸太郎は世之介のその考えに同意しているわけではないのだが、婿養子という立場もあり、世之介に逆らうことができなかった。
夕食の時間には佳恵も帰宅し、久しぶりに家族が全員揃った。
「幸太郎さん、向こうはいかがでした?」
佳恵がこういう尋ね方をするときは、会社の業績がどうなのかを聞きたい時だ。
「うーん、あまり好調とは言えないな」
「そうですか」
「今後、どうするつもりかね?」
世之介もアメリカのボストンに出した支店のことが心配だった。
「まあ、新たな販路を開拓していますし、現地のスタッフは皆、優秀です。そう心配はしていません」
「お願いしますね。あなた」
「まあ、しっかり頼むよ」
「はい」
創業家一族は食事中であるにもかかわらず、三代目を除いて仕事の話に夢中だった。三代目……美雪はというと、皿に一つだけ残ったソーセージがさっきから箸で掴めなくて悪戦苦闘中だった。狙いすましてそっと挟もうとするのだが、生きのいいソーセージはつるりとその身をかわした。他の創業家一族は話に夢中で誰も見ていなかったので、美雪は大胆な行動に出た。箸を置いて手で掴んでやろうと思ったのである。
「えい!」
さっきまであれほど身をかわすのがうまかったソーセージも、美雪の手の器用さには敵わずあっさりと捉えられてしまった。
「やった!」
念願叶って獲物を捕まえた美雪は、迷わずそのソーセージにパクリとかぶりついたが、妙な静けさを感じて獲物を咥えたまま上目遣いに周りを見渡した。すると、次の瞬間、大きく目を見開いた佳恵の甲高い声が響き渡った。
「美雪! 何ですか、はしたない!」
美雪は自分の身に次に起こるだろうことが予測できて、思わず身構えた。佳恵にそのいけない手を叩かれると思った。
「まあまあ、せっかく皆が揃ったんだ。今日の所はぼくに免じて」
(そうだ、今日はお父様がいるんだ)美雪は、助かったと思った。
「あなたは、いつもそう。美雪を甘やかしすぎるのよ」
「すまん。すまん。ぼくから後でちゃんと言い聞かせるから」
「まったくもう。わたくしがきちんと躾ても、ちっとも言うことを聞かないわ。きっと、あなたの影響よ」
「わかった、わかった。よし、じゃあ美雪、私の部屋に来なさい。お説教してあげるからな」
「はーい」
父と娘が部屋を出ていく姿を見送った佳恵は、幸太郎が美雪に説教をするはずなどないことを知っていた。それは美雪も同じだった。お父様はいつも自分の味方であることを美雪は知っていた。
「幸太郎君にはさっきも言ったんだが、美雪にちょっと甘すぎるな」
「ええ、ほんとに」
創業家は二つの派閥に分かれた。
「おとうさま、さっきはごめんなさい」
「いいんだよ。それより美雪、インドって国を知っているかい?」
「いんど?」
「ああ、インドの人は食事の時、手で食べるんだよ」
「そうなの?」
「うん。だから手で食べることは決して悪いことじゃないんだよ。でもね、せっかくお箸があるんだから、それを使ったほうがいいとは思わないかい?」
「うん。でも、じょうずにつかえないの」
「美雪、これを見てごらん」
幸太郎は壁一面に並んだ蔵書の中から一冊の本を取り出して、自分の膝の上にちょこんと乗った美雪の前に広げた。
「このおじいさん、なにしているの?」
幸太郎の開いたページには、何かを作っている老人の写真が載っていた。
「このおじいさんは、お箸を作っているんだよ」
「おはし?」
「そう、美雪のお箸もこのおじいさんが作ったものかも知れないね」
「おじいさんが?」
「ああ、もちろん、機械で作るお箸もあるけど、こうして一つひとつ丁寧に作られるお箸もあるんだよ。ほら、きれいだろ?」
ページをめくると、そこには老人の作品が並べられていた。
「まあ、きれい!」
「そうだろ? これは、このおじいさんが作ったお箸なんだよ。見てごらん、子供用のお箸もあるよ」
「ここになんてかいてあるの?」
写真の横には、この老人へのインタビュー記事が掲載されており、その文面からは、この老人の箸に対する思いが伝わってきた。
「ここにはね、おじいさんがどんな思いでこのお箸を作っているかが書かれているよ。おじいさんは、自分の作ったお箸でどんな人がどんな料理を食べるのか、その人がこのお箸を使っておいしそうに食べている姿を想像しながら作っているそうだよ」
「わたし、わるい子だったわ。おはしをほうりだしちゃった」
「そうだね。せっかく、こうしてお箸を作ってくれる人がいるんだから、その人のためにも上手に使ってあげなきゃね」
「うん、わたし、じょうずにつかえるようにれんしゅうするわ」
「よし、じゃあ、奈美さんに言ってお箸を借りておいで。お父様と一緒に練習しよう」
「うん!」
美雪は頭のいい子だった。事の必要性や意味を理解すれば、あっという間にそれを成し遂げることのできる子だった。頭ごなしに押し付ける佳恵とは違って、幸太郎は美雪の性格をよく理解していた。(つづく)
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