「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-9-
げんちゃんが魔法の言葉を使っていじめっ子を退治してくれたので、あの日以来、いじめっ子は美雪に近づかなくなった。でも、げんちゃんもあれ以来、幼稚園に来なくなってしまった。お掃除のおばさんに聞いても、「うん、ちょっとね」そう言うだけで、おばさんは何も教えてくれなかった。
いじめっ子が大人しくなり、げんちゃん王子は役目を終えて空の彼方に帰って行ったわけではなかった。幼稚園への出入りを禁止されてしまったのである。理由は言うまでもなかった。手の付けられないどうしようもない悪ガキだとは言え、美雪と同じ幼稚園の園児ということは、あのいじめっ子も家柄の良い金持ちの息子だったということだ。そのどこやらのご子息に小便を漏らさせてしまった身なりの良くないげんちゃんは、あっという間に仕事をクビになってしまった。もちろん、まだ小学生のげんちゃんが給料をもらって働いていたわけではなかった。げんちゃんは、ひとりで大変そうなおばさんを手伝うために幼稚園に来ていたのだった。
「おばさん、大丈夫?」
美雪は、辛そうに机を運んでいるおばさんが心配になった。
「ありがとう、美雪ちゃん。おばさんは大丈夫よ」
美雪はげんちゃんがやっていたように、おばさんと一緒に机を運んでやりたかったが、体の小さな美雪にはそれができなかった。その代わり美雪は、おばさんが机を運んでいる間、バケツの雑巾を絞っておいてやることにした。おばさんが机運びを終えたらすぐに雑巾を使えるようにしようと考えた。
「あらあら、お嬢さんにこんなことさせちゃ、親御さんに叱られちゃうね」
そう言いながらも、おばさんはうれしそうに美雪の絞った雑巾を美雪には気づかれないように一度だけ絞り直し、運び終えた机の上を拭き始めた。
「おばさん、おばさんはおにいちゃんのおかあさんなの?」
「いいえ、おばさんはおかあさんではないのよ」
「ふーん……。おばさん、おばさんのおうちはどこ?」
「おばさんは、虹橋の向こうに住んでいるのよ」
「にじばし?」
「ほら、お山の向こうに大きな観音様が立っているでしょ?」
「えー! おばさんのおうち、あのはしのむこうにあるの? じゃあ、おにいちゃんもあのはしのむこうにいるの?」
「ええ、そうよ」
「やっぱりそうなんだわ。おにいちゃんはおうじさまなのね」
「王子様? ぷっ、ゲンがかい? はっはっはぁ。美雪ちゃんは面白いことを言うんだねぇ」
「ちがうの?」
「い、いえ、いえ、ごめんね、笑ったりして。でも、あの子が王子様ねぇ……。まあ、言われてみればそうかも知れないね。何もお金持ちのお坊ちゃんだけが王子様になれるとは限らないものね。ゲンは、美雪ちゃんにとっても、あの子にとっても王子様なんだねぇ」
「あのこ? だれ?」
「ううん、なんでもないよ」
「おにいちゃんはとってもすてきなおうじさまよ」
「美雪ちゃん、ありがとね。ゲンもきっと喜ぶわ」
おばさんはそう言うと再び机の上を拭きだした。よく見るとおばさんは机の上に落ちた自分の涙を拭きとっていた。
「おばさん、わたしね、はしのむこうにいってみたいの」
「橋の向こうにかい? わざわざ行ったところで何もない所だよ」
「み子ちゃんをおかあさまのところにつれていってあげたいの」
「み子ちゃん? お友達かい?」
「うん、あのね、み子ちゃんはね……」
「美雪!」
美雪を呼んだ突然のその声に、おばさんは少し慌てたようだった。
「美雪ちゃん、お迎えが来たようだから……。今日はお手伝いしてくれてありがとね」
「うん! おばさん、さようなら」
美雪はおばさんに手を振り外へと出た。
運転手の村上は幼稚園の門前に車を付け、美雪が車にやってくるまでのつかの間のひと時、妻のお手製の健康ドリンクを飲んでいた。
佳恵は部下の報告書に目を通しながら、ぶつぶつと一人で文句を言っている。
「まったく、全然報告になっていないじゃない。もう一度、調査させないとだめだわ。いったい何をやっているのかしら!」
美雪は教室の外には出て来たものの、目の前を横切って行ったトンボに気を取られてなかなか車の方までやってこない。
「美雪、早くしなさい! いつまでも何をしているの!」
この後、会社に戻らなければいけなかった佳恵はぐずぐずしている美雪に声を荒げた。
「ごめんなさい」
やっとたどり着いた美雪は、車に乗り込むと同時に佳恵の顔を見て謝ったのだが、佳恵は報告書を見たまま美雪の方など見向きもしなかった。
佳恵はあまり機嫌がよくないようだ。村上が健康ドリンクを飲むことに気を取られていなければ、佳恵の機嫌が直るまで佳恵に話しかけないように美雪をうまくリードしてくれたはずなのだが、この日ばかりは美雪にとっては運が悪かった。
「おかあさま?」
「何ですか」
美雪は、この前げんちゃんが言った魔法の言葉がずっと気になっていた。げんちゃんは正義の味方で魔法も使えるいい子だということを佳恵に自慢したくて、その言葉の意味を佳恵に聞きたかったのだが、先日、奈美が食卓に飾ってくれたきれいなお花の名前を聞こうとして、
「おかあさま、このおはなのなまえはなあに?」
と、佳恵に言った時、
「なあにじゃなくて、なんですかです。きちんとした言葉使いをしなさい。それと、人と話すときはもっと大きな声ではっきりと話しなさい。いいですね!」
そう叱られたばかりだった。だから、頭のいい美雪はまた同じ過ちを繰り返さないように、聞いたこともない魔法の言葉が佳恵にも分かるようにはっきりと元気よく大きな声で尋ねた。
「おかあさま、キ・ン・タ・マってなんですか!?」
上手に言えた。美雪の自己採点では、ほぼ満点だった。が、しかし、それはいずれ上流社会の清楚なお嬢様となる予定の美雪が、生涯一度たりとも口にしてはならない言葉だった。そして、そのげんちゃんの使った魔法の言葉の威力はやはり絶大だった。
「……」
「……」
その瞬間、その場に居合わせた二人の大人の時間が止まった。美雪が車の窓越しに空を見上げると、ゆっくりと雲が流れていく様子が見えたので、魔法によって時間が止まったのは佳恵と村上の二人だけであることがわかった。
「カァー、カァー、カァー」
しばらくして、幼稚園の滑り台の上にとまっていたカラスの鳴き声で先に村上にかけられた魔法が解けた。村上は飲んでいた健康ドリンクを吹き出しそうになり、慌ててそれを呑み込もうとして喉に詰まらせた。
「げ、げほっ、げほっ」
佳恵はまだ魔法が半分解けていないのか、報告書を片手に目を見開いたまま、落魄(おちぶ)れDJの下手なスクラッチのように、
「キ、キ、キン、な、な、なに、キ、キ、キン」
意味の分からぬ言葉を繰り返していた。
二人の大人をいとも簡単にこんな目に合わせてしまうほど、この魔法の言葉には威力があった。魔法が解けても佳恵は自分の娘に何が起こったのか理解できず、おろおろするばかりだ。
「美雪! あ、あなたは、な、何てことを!」
「キ・ン・タ・マをにぎりつぶすってどうするの?」
さっきはあまりにも強力だったので、今度は少しだけ優しく言ったつもりなのだが、美雪の二度目の失態は佳恵に致命傷を与えた。
「ヒ、ヒェー! む、村上さん! 村上さん!」
もう自分の手には負えないと思ったのか、佳恵は運転手の村上に悪霊に憑りつかれた娘を何とかしてくれと懇願した。
「はっ、は、はい」
二人の大人の慌てようからして、美雪はやはりこの言葉には魔法の力があるのだと思った。
村上はかけていた車のエンジンを急いで切り、車を降りて美雪の座っている後部座席のドアを開けた。
「お、お嬢様! お、女の子が、そ、そんな言葉をお使いになっては、い、い、いけません」
「どうして?」
「そ、それは、その言葉は良くない言葉だからです」
「男の子は使っていいの?」
「ええ、い、いえ、男の子も普通の子は使いません! いいですか、もう二度と使ってはいけませんよ」
「はーい」
美雪はやはりこれは普通の子には使えない、げんちゃん王子じゃないと使っちゃいけない魔法の言葉なのだと思った。げんちゃんは特別なんだ。そう理解した美雪は村上の言いつけに素直に応じた。(つづく)
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