「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-4-

 翌朝、美雪は久しぶりに親子三人で幼稚園に向かった。美雪の通う幼稚園には、いわゆる幼稚園バスというものはなかった。園児の親たちがベンツかBMWで送り迎えするので、幼稚園が送迎用のバスを出す必要がなかったのである。美雪はいつもなら、運転手の村上が運転する社用車で佳恵とともに幼稚園へと向かう。そして、佳恵は美雪を預け、そのまま会社に出勤する。しかし、今日は大好きなお父様もいっしょだ。

「美雪、幼稚園は楽しいかい?」

「うん、たのしいわ」

「うんじゃなくて、はいでしょ!」

 助手席に座った佳恵は、会社の資料に目を通しながら美雪に注意した。いつもなら見逃してやるところなのだが、今日は美雪に甘い幸太郎に当てつけてわざと注意した。

「はい」

 美雪は元気なく小さな声でそう返事をしたが、隣に乗っている幸太郎が面白い顔をして笑わせてくれたので、すぐに笑顔になった。幸太郎と美雪は、助手席の佳恵に気づかれないように、腰をかがめながら顔を見合わせ、声を出さずに笑った。これからしばらくの間は、この優しいお父様と一緒だと思うと、美雪は幼稚園に行くのが楽しく思えた。

 美雪は幼稚園が好きだった。いろんなことを教えてもらえるし、みんなでお遊戯したりお昼やおやつを食べたりできるので楽しかった。ただ、唯一幼稚園が終わって佳恵が迎えに来るまでの間、この時だけは憂鬱だった。

 朝はいつも園児の親たちの車で幼稚園の周りは渋滞するほど混みあうが、帰りは親が迎えに来た園児から、ひとりまたひとりと順番に帰っていく。美雪の順番は、最後の方になることが多かった。佳恵は美雪の迎えにはいつも仕事の合間にやってくるので、どうしても幼稚園が終わる時間には間に合わない。いっそのこと、お手伝いの奈美か、運転手の村上だけで迎えに来られればよいのだが、幼稚園は両親以外の人間に園児を預けない規則であるため、忙しい佳恵はやむなく仕事を抜けてやってくる。それでも、どうしても会議を抜けることができず、美雪を迎えに行けない日が週に一、二度だけある。そういう場合は、その旨を園側に電話で伝える。前もって電話をしておけば運転手の村上だけでも迎えに行くことができたが、他の親の手前、その手もそうちょくちょくは使えない。だから、基本的には、美雪は幼稚園が終わった後、佳恵が来るまで一時間ほどの間を一人で過ごすしかなかった。

 いや、正確には美雪はひとりではなかった。もう一人、美雪と同じように迎えを待つ男の子がいたのだが、美雪はその子のことが嫌いだった。美雪はその子からできるだけ離れ、ひとりで絵本を読んだり、お絵かきしたりして時間を過ごした。しかし、男の子はひとりでいる美雪に必ずちょっかいを出してくる。読んでいる絵本を取り上げたり、お絵かきした絵に落書きしたり、とにかく、美雪にとって邪魔ないじめっ子なのである。

 その日もいつものように、いじめっ子がちょっかいを出して来た。

「おい、おまえ、それよこせよ」

 美雪は黙ってそれを無視した。

「よこせってば!」

 いじめっ子は美雪の持っていたクレヨンを取り上げた。

「なにするの、かえして!」

「へ、やなこった」

「かえしてよ!」

 美雪はクレヨンを取り返そうといじめっ子を追いかけたが、いじめっ子は美雪が近づくと逃げてしまう。

「ほら、取ってみろよ」

 美雪は一度奪われてしまったクレヨンをこのいじめっ子から取り戻すことができないことを知っていた。つい先日も一本取られてしまったのである。十二色のクレヨンのセットは、残り十色となってしまった。先日取られたクレヨンは、黄土色だったので無くてもそれほど困ることはなかった。しかし、今日取られたクレヨンが肌色だったことが悔やまれた。せっかく、お父様の似顔絵を描いて今夜お父様に見せようと思ったのに、これでは台無しだ。

 美雪が諦めかけたその時、いつも一人で来る掃除のおばさんと一緒に、その日はもう一人男の子がやって来た。美雪が初めて見る子だった。坊主頭のその男の子は、美雪やいじめっ子より年が上だった。恐らく、小学校の三年生か、四年生くらいだと思われた。

「おい、それ返してやれよ」

 おばさんと一緒に来た男の子は、いじめっ子にそう言うとおばさんと一緒に教室の机を片付け始めた。

「へ、やだよーだ」

 いじめっ子はその男の子を恐れることもなく、また、美雪にちょっかいを出し始めた。

「ほら、もういっぽんよこせよ」

「いや!」

 美雪が残り十本のクレヨンの入ったケースをいじめっ子から守ろうとして抱え込んだが、いじめっ子はそれを無理やり取ろうとしてケースの引っ張りあいになってしまった。

「あっ!」

 次の瞬間、美雪から奪い取られたクレヨンのケースが宙を舞い、中のクレヨンがばらばらに飛び出した。

「おまえがよこさないからわるいんだ」

 いじめっ子はそんな捨て台詞を残して、迎えの車に乗って帰ってしまった。美雪が泣きべそをかきながら飛び散ったクレヨンを一本ずつ拾ってケースに戻していると、

「ほれ、もう泣くな」

 そう言って、おばさんと来た男の子が一緒にクレヨンを拾ってくれた。いじめっ子は、さっき取り上げた肌色のクレヨンも置いて行ったので、この前取られた一本を除いて何とか十一本のクレヨンが揃った。

「もう一本はどうした?」

「さっきの子にとられちゃったの」

「そうか……。おまえ、みゆきって言うのか?」

 男の子は、美雪の胸のあたりに縫い付けられた名前を見て言った。

「うん」

 男の子はそれ以上何も言わず、おばさんと一緒にまた机運びの仕事に戻った。

「おにいちゃん、ありがとう」

 美雪は見知らぬ優しい男の子にお礼を言ったが、男の子は美雪の方を少し見ただけで何も言わずおばさんと一緒に掃除を始めた。

「美雪、帰るわよ」

 気が付くと、門の外で佳恵が呼んでいた。

「あ、はい。おにいちゃん、バイバイ」

 美雪は男の子に手を振ったが、男の子は、今度は美雪の方を見ることもなく、黙々と掃除を続けた。

「美雪、早くしなさい」

 この後、仕事に戻らないといけなかった佳恵は、ノロノロしている美雪にイライラしている様子だった。カバンにクレヨンをしまって、先生にご挨拶して美雪は迎えの車に乗った。車の窓越しに幼稚園の建物の中を覗くと、お掃除のおばさんと男の子が一生懸命に雑巾で机を拭く姿が見えた。

「誰です。さっきの子は?」

 佳恵は美雪が話しかけた相手が、自分たちとは接点などないはずの人間だと思ったので、美雪にそう尋ねた。

「よく知らないの。でも……」

「いいですか、美雪。ああいう子と口を利いてはいけません」

「どうして? やさしいおにいちゃんよ。わたしのクレヨンをひろってくれたのよ」

「とにかく、あんな身なりの子とかかわりあってはいけません」

「みなりって?」

「お洋服のことです。あんな薄汚れた格好で」

 言われてみればあのお兄ちゃんは、半ズボンの上はランニングシャツだった。しかも、そのランニングシャツは確かに汚れていたが、美雪はその格好がお兄ちゃんの坊主頭には似合っていると思った。

「でも……」

「いいですか、今後一切口を利いてはいけません。分かりましたか?」

「はい……」(つづく

 

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