「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-8-

 ある日、幼稚園が終わったあと、いつものように美雪は佳恵が迎えに来るのを待っていた。すると、例によって、いじめっ子が美雪の方に近寄ってきた。今日はお掃除のおばさんもげんちゃんも、まだ来ていなかった。美雪は少し不安だった。いつもげんちゃんが守ってくれていたので、このところ美雪は少しいい気になっていた。げんちゃんを盾に、後ろでいじめっ子を威嚇したり、変な顔をして馬鹿にもした。いじめっ子はきっと、ストレスを溜めているに違いなかった。今日はまだげんちゃんが来ていない。美雪はいじめっ子からそっと遠ざかろうとしたが、いじめっ子は何故か美雪の方ではなく、ロッカーの方に向かって歩き出した。

「あっ!」

 いじめっ子が何を企んでいたのか、美雪が気づいた時にはもう遅かった。いじめっ子は美雪のバッグについているコアラのぬいぐるみを奪い取ることが目的だったのだ。

「やめて!」

「へん、なんだこんなもの!」

 そう言うといじめっ子は、コアラを握りバッグを振り回し始めた。

「やめて! それは、おとうさまにもらったたいせつなコアラちゃんなの。だから、コアラちゃんをいじめないで!」

「たすけたかったらとりにきてみろ」

「かえして! ねえ、かえしてよ」

 いじめっ子からコアラを救い出そうと、美雪は必死にいじめっ子に食らいついたが、どうしても取り返すことができなかった。

「あ!」

 その時、バッグとコアラをつないでいた鎖が切れてバッグが宙を舞い、そして床に落ちた。

「おい、何やってんだ!」

 美雪の背後でげんちゃんの声がした。げんちゃんは美雪が「もうだめだ」と思うと必ず来てくれる。だが、今回だけは少し遅かった。

 美雪は大好きなお父様にもらった大切なコアラが、いじめっ子の手の中で潰れ、せっかくお父様がバッグに付けてくれたのにその鎖も切れてしまい、悔しくて思わず涙を流した。

「ふん! なにがコアラちゃんだ! ただのぬいぐるみじゃねえか」

 いじめっ子は握りつぶしたコアラを美雪に投げつけ立ち去ろうとしたが、その行為がついにげんちゃんの逆鱗に触れてしまった。

 げんちゃんは、ゆっくりといじめっ子に近づいて行った。いじめっ子は後ずさりしながら、すきを見て逃げようとしたが、足がすくんで動けないようだった。

「てめえ、いい加減にしねえと、てめえのこのキンタマ握り潰すぞ!」

 いじめっ子は、げんちゃんの怒鳴ったその声と、握りつぶされる寸前で止められた自分の股間に当てられたげんちゃんの手の握力に強さに震え上がり、げんちゃんの手が離れると同時に思わずその場で小便を漏らしてしまった。

 美雪はげんちゃんが言った言葉の意味は分からなかったが、げんちゃんはきっと、魔法の言葉を言ったのだと思った。お父様から聞いた勇者ペルセウス神が魔法を使ったように、いじめっ子を黙らせ、石になったように硬直させ、ここ最近は美雪もしていないお漏らしまでさせてしまうことができる魔法の言葉をげんちゃんがついに使ったのだと思った。

 げんちゃんは、いじめっ子にそれ以上の罰は与えず、代わりに飛び散った鎖と潰れたコアラを拾った。そして、美雪がこれも魔法なのかと思うほど、残った鎖を器用につなぎ合わせてバッグに通すと、潰れたコアラを指先で整え、元通りきれいに直してくれた。

「ほれ、直してやったからもう泣くな」

 げんちゃんは美雪にそのバッグを渡し、いつものように机を片付け始めた。でも、おばさんの姿はなかった。おばさんはどうも風邪をひいて寝込んでしまったらしい。今日、げんちゃんが遅れてやってきたのもおばさんの看病をしていたからだった。

「おにいちゃん、ひっ、あ……あい……ひっ……がと」

 げんちゃんがそれに答えないことは分かっていたが、泣きべそをかきながらところどころ声を詰まらせ、美雪はげんちゃんに必死にお礼を言った。

 その姿を気の毒に思ったのか、それとも、もうすぐやってくるであろう美雪の母親が見たらきっと大騒ぎすると思ったのか、げんちゃんは運んでいた机を置いて美雪の方に近づいてきた。

「ありゃー、鼻水まで垂らしてしょうがねぇなぁ、ほれ、手洗い所まで連れて行ってやるから」

 げんちゃんはそう言って美雪に手を差し伸べたが、泣きじゃくる美雪は一向に立ち上がろうとしなかった。

「まいったなぁ。ほら、もう泣くなよ。せっかくのかわいい顔が台無しだぞ」

 四歳とは言え、女という生き物は、かわいいとかきれいとか言う言葉には敏感だ。そう言って優しく微笑んだげんちゃんの顔を見た途端、美雪にいつもの明るい笑顔が戻った。

「そうだ、いい子だ」

 げんちゃんは美雪の両脇を持って立たせると、くるりと反転して自分の背中に美雪を乗せた。そして、外の水道まで美雪を背負って歩き出した。

「おまえ、軽いんだな」

「ダイエットちゅう……」

「はあ? 馬鹿かお前は。子供はちゃんと飯食え」

「おにいちゃん、おにいちゃんは、おうじさまなの?」

 げんちゃんの背中に揺られながら美雪が尋ねた。

「はあ? 何言ってんだ、お前は。こんな王子様がいるかよ」

 そう言ってげんちゃんは、自分の着ていたランニングシャツの胸元を引っ張って背中に乗った美雪に見せた。よく見ると、げんちゃんが指でつまんだあたりに小さな虫食いの穴が開いていた。

「わかったろ? 俺は王子様でも何でもねえよ」

 水道のところまでやってくると、げんちゃんは自分のズボンのポケットから何かを出そうとしてそれが無いことに気が付いた。

「おまえ、ハンカチ持ってるか?」

 美雪が着ていたスモックのポケットからハンカチを取り出してげんちゃんに渡すと、げんちゃんはそれを受け取り、水で少し濡らしてから美雪の顔を拭いてくれた。鼻水で汚れた鼻の下のあたりは汚れが落ちにくかったのか少し強く拭かれてちょっと痛かったが、美雪は何とかそれを我慢した。

「だいぶ汚れちまったから、後で母ちゃんにちゃんと洗ってもらえ」

 げんちゃんは、水道で洗ったハンカチを畳んで美雪に返した。

かあちゃんって?」

「あん? ああそうかお母さまだったな。お母さまに洗ってもらえ」

「おかあさまは、おせんたくしないわ。なみちゃんがするのよ」

「そ、そうか、まあ、どっちでもいいが、ちゃんと洗ってもらえよ」

 げんちゃんは美雪に呆れたような顔を見せて、また机運びに戻って行った。

 しばらくして佳恵が美雪を迎えに来たときにはすべての問題が解決していた。げんちゃんに魔法をかけられたいじめっ子もいつの間にかいなくなっていた。

 帰り際、美雪はげんちゃんに、今朝、奈美からもらってきたピンク色のスイートピーの花をあげた。

「おにいちゃん、これあげる。わたしね、このおはながいちばんすきなの」

 本当はみ子ちゃんにあげようと思って持ってきたのだが、げんちゃんに優しくしてもらったお礼がしたかった。

「こりゃ、豆の花だな」

 女の子からお花を貰ったげんちゃんは、そんな無粋な感想を口にしたが、「ありがとよ」そう言って大事そうに貰ってくれた。

 その日家に帰った美雪は、げんちゃんに言われた通り奈美にハンカチを預けると、自分の部屋に行き、机の引き出しからげんちゃん王子の絵を引っ張り出して、げんちゃんのランニングシャツの胸元に黒色のクレヨンで小さな穴をあけた。

「あら? 誰の絵ですか?」

 洗ってアイロン掛けしたハンカチを持って、部屋に入って来た奈美が美雪の絵を見て言った。

「げんちゃんよ」

「げんちゃん? ひょっとして、お嬢さまのボーイフレンド?」

「ううん、ちがうわ。げんちゃんはおうじさまなの」

「おうじさま? あら、素敵ですね。じゃあ、大きくなったら王子さまのお嫁さんになれるといいですね」

「ううん、およめさんにはならないわ。だって、わたしはおとうさまのおよめさんになるんだもの」

「まあ、旦那さまがお聞きになったら涙を流して喜びそうね」

 奈美はそれを聞いた時の幸太郎の顔を思い浮かべて思わず微笑んだ。そして同時に、げんちゃんのことを話す美雪の目の輝きも見逃さなかった。幸せそうに、自分で描いたげんちゃんの絵を見つめる美雪を見て、奈美は持っていたハンカチを引き出しにしまいながら、遠い昔の記憶の糸を手繰り寄せていた。それは、いつかどこかで会ったはずの、美雪と同じように目を輝かせていた少女の記憶だった。(つづく

 

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