「めぐり逢う理由」 (第二章 げんちゃん王子)-10-
それからひと月が経った頃、美雪は幸太郎と佳恵とともにアメリカへ行くことになった。ボストンに出した支社の業績があまり伸びないことから、幸太郎が腰を落ち着けてじっくりと見ることになった。会社のことが心配な佳恵も幸太郎についていくことにした。幸太郎は、美雪のためにも佳恵には日本に残って欲しかったのだが、佳恵がそんな理由で幸太郎の言うことを聞くはずもなかった。
「美雪、すまんな。日本を離れるのは寂しいだろう?」
「あめりかってとおいの?」
「ああ、遠いんだよ。ちょっとやそっとでは帰ってこれないんだよ」
「そうなの。でも、あめりかにいったら、おとうさまとずっといっしょなんでしょ? だったらへいきよ」
美雪はまだ四歳だった。よし子ちゃんとさち子ちゃんと離れるのは寂しかったが、それほど日本に思い出があるわけではなかった。
ただ、いつかまたげんちゃんに会えると思っていたのに、それが叶わなくなるのは寂しいというよりは悲しかった。せめて、最後にげんちゃんにお礼が言いたかったが、どうすればげんちゃんに会えるのか分からなかった。お掃除のおばさんにも聞いてみたが、「あの子は、もうここには来れないんだよ」そう言って、おばさんは悲しそうな顔をした。
「おとうさま、わたし、おにいちゃんにおれいがいいたいの。でも、おにいちゃんはもうようちえんにはこないの。まほうのころばをつかってしまったから」
「魔法の言葉? どんな言葉なんだい?」
「それは……えーと、それはね、ふつうの子はいってはいけないの」
幸太郎は何とか美雪の願いを叶えてやりたいと思ったが、出発の日までもうあまり時間がなかった。あれこれ思案した末に美雪にひとつだけげんちゃんにお礼を言う方法を伝えた。
「お礼の手紙を書いて、お掃除のおばさんからげんちゃんに渡してもらったらどうかな?」
「う、うん……」
そう言って頷いた美雪の顔が、何故か幸太郎にはとても悲しそうに見えた。その時、美雪の瞳の奥に幸太郎が見たものは、暗闇の中に立つ、ひとりの悲しそうな少女の横顔だった。
自分の部屋に戻った美雪は、机の引き出しの中からげんちゃんの絵を取り出すと、それを広げクレヨンを手に取り白く空いているスペースに文字を書き込んだ。
げんちゃんへ
ありがとう。ばいばい。
美雪はお友達のみ子ちゃんにもお別れを言った。
「み子ちゃん、ごめんなさい。み子ちゃんをおかあさまのところにつれていってあげられなくなっちゃった。わたしね、アメリカにいくの。アメリカはね、とおいところなの。ちょっとやそっとじゃかえってこれないのよ。だからね、もう、はしのむこうにいけないの。ごめんなさい」
数日後、美雪たち一家はアメリカへ向けて旅立った。美雪の想いはげんちゃんに伝わったのだろうか。お掃除のおばさんは、「美雪ちゃんの描いてくれた絵、ちゃんとゲンに渡したよ」そう言ってくれた。でも、それだけだった。
あの頃……。美雪がまだ幼かった頃、美雪の傍にはげんちゃんという名前の王子さまがいた。美雪をいじめっ子から守ってくれたその王子さまは、美雪の記憶の中だけに残った。もしかしたら、げんちゃん王子は、本当は寂しがりやの少女が見た幻だったのかも知れない。ただ、いつだったか、いじめっ子に取られてしまった黄土色のクレヨンは美雪のもとへと戻ってきていた。
「これ、ゲンが美雪ちゃんに渡してくれって」
げんちゃんが幼稚園に来なくなった日の翌日、お掃除のおばさんはそう言って美雪に黄土色のクレヨンを渡してくれた。
十二本全部そろった美雪のクレヨンセットが、げんちゃん王子が美雪の傍にいた証となった。
アメリカへと向かう飛行機の中で、美雪はげんちゃんの夢を見た。大人になった自分を白馬に乗ったランニングシャツ姿のげんちゃんが迎えに来る夢だ。
「この子、寝ながら微笑んでいるわ。いったい、何の夢を見ているのかしら」
「そうだな、きっと幸せな夢を見ているんだろうね」
美雪を間に挟んで幸太郎と佳恵もつかの間の眠りについた。
西園寺美雪……。四歳と三か月、げんちゃん王子と初めて出会ったあの日以来、一度もおねしょをしていない。(つづく)
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