「めぐり逢う理由」 (第三章 再会と人違い)-1-

再会と人違い

「美雪! 準備はできたの? まったくあなたは、もっとテキパキとできないの!」

「は、はい。ごめんなさい。お母さま」

「そんなもの、いつまで持っているつもりなの! 幼稚園の子供じゃあるまいし」

 幸太郎の仕事の都合で、美雪たち一家がアメリカに渡ったあの日から二十年が経ち、美雪は二十四歳になった。厳しい母親からは相変わらず小言を言われる毎日だ。

「だって、大切な思い出なんですもの……」

 独り言のようにそう呟くと、美雪は十二色のクレヨンセットをスーツケースの一番奥にしまい込んだ。

 創業からおよそ半世紀、西園寺世之介は八十二歳になった。長年、五葉電機のトップの座に君臨した世之介は、大病を患ったのを機に自分は経営から退き、社長の座を義理の息子の幸太郎に譲った。

 幸太郎の社長就任に合わせ、美雪は母親の佳恵とともに二十年ぶりに日本に居を移すことになった。この二十年の間、美雪は日本に二、三度帰国する機会があったが、それは学校の休みを利用してのせいぜい数日間だけのものであった。しかし、今回は住み慣れたアメリカの家を引き払い、日本で世之介とともに白金の自宅で暮らすことになったのだった。

 数年前、五葉電機は創業の地である和歌山から東京の品川に本社を移した。それに伴い、美雪たち一家も東京に移り住むことになった。もとの家は、七年前に結婚した奈美が、夫と子供と共に近くに住み、管理をしてくれている。

 美雪の大学での専攻は経済学で、大学院はHBS(Harvard Business School)へと進んだ。そこで、MBAの資格も取得した美雪は、祖父と母親の期待した通り、五葉電機の三代目としての資質を十分に身に着けた、まさに才女と呼ぶに相応しい女性となった。日本人だけではなく、外国人から見ても、輝く美貌に加え知性と品格を合わせ持った美雪は、ほぼ完璧な令嬢だった。当然、周りの男たちが放っておくはずはなかったが、佳恵の厳しいチェックと美雪の奥手な性格が災いし、美雪はこの歳になるまで恋人と呼べる相手に恵まれることはなかった。

 そんなアメリカでの暮らしは決して嫌いではなかったが、生涯ずっとそこで暮らしたいとは思わなかった。生まれてからたったの四年と三か月しか居なかったし、しかも、その内の初めの三年間くらいの記憶はとうの昔に無くしてしまっていたが、やはり美雪は日本が恋しかった。

「げんちゃん、どうしているんだろうなぁ」

 げんちゃん王子のことは、アメリカに引っ越してしばらくは、ときどき思い出すことはあったが、大人になった今となっては遠い昔の思い出に過ぎなかった。

 あの時、げんちゃんが使った魔法の言葉は、小学校に入って割とすぐにその本当の意味を知った。それを知った時、美雪は顔から火が出るほど恥ずかしかった。あの時すぐに運転手の村上にその言葉を封印してもらったので、美雪はその後誰にも、大好きなお父様にもその言葉を使わずに済んだことを不幸中の幸いだったと思った。

 しかし、時として人の記憶力というものは残酷なものである。誰もが振り返る美しい女性となった美雪が、不要になったからと言って、その忌まわしい記憶を都合よく消せたかと言えば、そうではなかった。美雪は自分ではもう消したつもりになっているが、その記憶は決して消えてしまったのではなく、恐らく脳の中で長期の記憶を司る海馬という部分に、今でも大切に仕舞い込まれているものと思われる。

 だからと言って、美雪が自分にそんな不要な記憶を残したげんちゃんのことが嫌いになったかと言えばそうではなかった。小学校の高学年になって、お父様のお嫁さんにはなれないことが分かってからは、げんちゃんのような強くて優しい男性のお嫁さんになりたいとずっと思っていた。その思いは二十四歳になった今でも変わらなかった。

 げんちゃんではなく、げんちゃんのような男性と思ったのは、げんちゃん本人にはもう会えないのだろうという、漠然とした諦めの気持ちが美雪の中にあったからなのかも知れない。例え、誰にも邪魔されることのない自分の夢の中でさえも、もう会うことは叶わないことを美雪は知っていた。

 美雪が十三歳になったばかりのある日、美雪はたった一度だけ、げんちゃんに会った。まさか、遥か遠く離れた異国の地で偶然出会ったわけではなかった。その日、げんちゃんは美雪の見た夢の中に現れた。例え夢でも、げんちゃんのやさしい笑顔を見ることができたのなら、その時美雪は幸せだったに違いない。しかし、夢の中に出て来たげんちゃんは泣いていた。誰かにいじめられて泣いていたわけではなかった。とても怖い顔で泣きながら誰かを叩いていた。あの頃、決していじめっ子を叩いたりしなかったげんちゃんが、泣きながら誰かを叩き続けていた。美雪は怖くなって、「叩かないで。もう、叩かないで」と何度もげんちゃんにお願いしたが、げんちゃんは美雪の言うことを聞いてくれようとはしなかった。

「やめて!」

 そう叫んで美雪が泣き出してしまうと、げんちゃんはようやく叩くのを止めてくれた。

「げんちゃん!」

 美雪はげんちゃんに抱き付こうとして駆け寄った。しかし、げんちゃんの姿はもうどこにもなかった。

 げんちゃんは、それっきり二度と美雪の見る夢に出てくることはなかった。(つづく

  

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