「めぐり逢う理由」 (最終章 めぐり逢う理由)-1-
めぐり逢う理由
あの頃……。そう、美雪がまだ幼かった頃、美雪の住む町の外れに新しい橋が架けられた。それから二十年の歳月が過ぎ、美雪は誰もが羨む素敵な女性に成長し、橋にはその名に相応しい貫禄が付いた。
龍背大橋……その橋にはおよそ四百年の歴史があった。四百年の間、橋は洪水で何度も流された。そして、その度に人の手によって再生されてきた。新しく架けられた橋は何度目の再生なのか、それを知る人はもう誰もいない。破壊と再生を繰り返し、橋は今も尚、そこに聳え立つ。
百年前、橋は橋の歴史上初めて人の手によって破壊された。その時、不幸にも命を落とした少女がいた。少女にはとても大切な人がいた。橋の上で少女はその大切な人と初めて出会った。その人を想う時、胸が苦しくて、切なくて、でも、毎日がとても楽しくて、幸せで、それまで乾いていた街の景色が生き生きと色づいて見えた。
それは、少女にとって生れてはじめての恋だった。
“初恋は実らぬもの” などと、自分の経験でしか物を言わない、意地の悪い大人たちはそう言うのかも知れない。それでも、少女はその恋を実らせようと一生懸命にその人を愛した。実らぬ恋があることなど考えてもみなかった。
“恋は盲目” 初恋が実らぬと言った大人たちは、そう言って命がけで貫こうとした少女の純愛を笑うのかも知れない。
少女はただ、最後にその人に愛を伝えたかった。しかし、それは叶わなかった。少女の伝えようとした言葉は橋とともに流された。
「お嬢さま!」
美雪からの帰郷の知らせを聞いて、駅に迎えに来た奈美が声を掛け走り寄って来た。
「奈美ちゃん! お久しぶりね」
「お嬢さま、ご無沙汰しております。旦那さまのご葬儀の時はお伺いすることができなくて、申し訳ございませんでした」
「いいのよ。奈美ちゃんは妊婦さんだったんですものね。今日、赤ちゃんはどうしたの?」
「主人に預けてきました」
「ママ、この人、誰?」
奈美の後ろに隠れていた、奈美の長男の誠也が恥ずかしそうに顔を覗かせた。
「あら? もしかして、誠也くん?」
「ええ、ほら、誠也、お嬢さまにご挨拶なさい」
「こんにちは」
「こんにちは。偉いわね。誠也くん、ご挨拶できるのね。いくつになったの?」
「よっつだよ」
「へー、じゃあ、幼稚園ね」
「ええ、今年から幼稚園に通っています」
「もしかして、私と同じ幼稚園?」
「ええ、旦那様が推薦してくださいまして。分不相応ですがお嬢様と同じ幼稚園に行かせて頂いております」
「父が?」
「ええ、旦那様には生前より何かと気にかけて頂きました。本当に感謝しております」
「そうだったの」
「お嬢さま、ご自宅までお送り致します」
「あっ、奈美ちゃん、その前に私、その幼稚園に寄りたいの。ごめんなさいね。奈美ちゃん、いいかしら?」
「ええ、それは構いませんけれど……。うふ、ふふふ」
奈美は、見た目はすっかり大人の女性になった美雪が、相変わらず自分のことを奈美ちゃんと呼ぶことに気が付いて、つい可笑しくなって笑った。
「奈美ちゃん、どうしたの? 何が可笑しいの?」
「だって、お嬢さま、私ももう来年は四十ですよ。子供も二人おります。いつまでも “奈美ちゃん” では。呼ばれた方が気恥ずかしくございます」
「そうかしら? じゃあ、何と呼べばいいの? 吉岡さん……とか、奈美さん? そんな風に呼べばいい?」
「そうですね。“ちゃん“ でなければ……」
「じゃあ、奈美さん……何か、ピンとこないわね。幼稚園までお願いします」
「はい、お嬢さま」
美雪は奈美の運転する車で昔懐かしい幼稚園にやって来た。
「奈美ちゃん……じゃなかった、奈美さん、誠也くんここでちょっと待っててね」
美雪はそう言い残すと、幼稚園の裏庭に向かった。そこには、み子の祠があった。
「み子ちゃん、二十年ぶりね。これずっと持っていてくれたのね」
美雪は祠の中からティアラを取り出した。街のおもちゃ屋で買ったティアラは、すでにあの時の輝きを失っていた。美雪は溜まった埃を手で払うと祠の中にそれを戻した。
「み子ちゃん、私ね、げんちゃんに会いに来たの。覚えているでしょ? あの頃の私の憧れの王子さま……。げんちゃん王子よ」
美雪は祠に向かって手を合わせた。
「でもね、本当はね、現太さんに会うべきかどうか、私まだ迷っているの。勇気を出して会いに来たんだけれど、現太さん、きっと私を軽蔑しているわよね。だって、私は現太さんではなく、清太郎さんを選んで婚約までしたのよ。現太さんのことが好きだったけれど、会社のためにそうしたの。そんな私を現太さんは許してくれるかしら……」
美雪は答えるはずもない、祠の中のみ子に向かって話しかけた。子供の頃、み子には何でも話すことができた。うれしかったこと、悲しかったこと、げんちゃんのこと、大好きなお父さまのこと、何でも話せた。当然ながら、み子は答えてくれなかったが、それでも、あの頃、み子とは不思議と心が通じ合っていたように思う。
「あら? み子ちゃん、あなたの名前……」
美雪は祠の中の『多み子』と書かれた木札を手に取った。
「み子ちゃん、あなたの名前、本当は多み子さんって言うのね。ごめんなさい。私ずっとみ子ちゃんだと思っていたわ」
そう言いながら、美雪が何気なくその木札を裏返して見ると、そこには力強い、それでいてどこかもの悲しげな文字が書かれていた。
多み子、お前に逢いたい
それは百年前、多み子を失い悲しみに打ちひしがれた新吉が、多み子を想って書いたものだった。あの時、助けてやれなかった悔しさや、伝えたかった想いが込められた、飾り気のない短い言葉だが、誰を恨むでもない、ただ逢いたい、もう一度だけお前に逢いたい、新吉の精いっぱいの気持ちが伝わって来る言葉だった。
それを見た美雪は言葉を無くしていた。木札を持つ自分の手が震えているのがわかった。そして、木札の文字を見つめる目から自然と涙がこぼれ落ちた。何故か、子供の頃に見た夢を思い出した。川で溺れる自分に手を差し伸べてくれる人がいた。大きな声でその人の名前を何度も叫んだ。その人に何かを伝えなくてはいけなかった。その人は自分にとって誰よりも大切な人だった。“お前に逢いたい” それは、その人の言葉だと美雪は思った。
「私、伝えなきゃ。あの時、伝えられなかったこと。あの人に伝えなくちゃ。そうよね。やっとめぐり逢えたんだもの。み子ちゃん、見守っていてね。私、勇気を出して伝えるわ」
美雪は祠に向かってもう一度手を合わせた。
幼稚園の門までやって来ると、そこに奈美が立っていた。
「行くのですね? あの人のもとへ」
「ええ」
奈美は、初めからそれが分かっていたようにやさしく微笑んだ。
「きちんと、お気持ちを伝えられますか? 練習致しましょうか?」
「何の練習?」
「“大好きです” 言えますか? その人に。お嬢さまは恋愛には奥手いらっしゃいますから。心配で……」
「だ、大丈夫よ。ちゃんと言えるわよ。多分……」
「今度は、きちんとご自分のお気持ちを伝えてくださいね」
「今度は?」
「いえ、何でもありません。がんばって」
奈美はようやく自分の役目を果たし終えたような、そんな安堵した顔を見せた。
「奈美ちゃん?」
「はい」
「やっぱり、これからもずっと奈美ちゃんって呼んでいいでしょ?だって、奈美ちゃんは私にとってずっと奈美ちゃんなんだもの」
美雪の願いに答える代わりに、奈美は優しく微笑んで見せた。
「よかった」
美雪は何か吹っ切れたような笑顔を見せ、現太のもとへと歩き出した。奈美は美雪の髪に飾られた自分のものと同じ玉簪を見つめながらその後ろ姿を見送った。(つづく)