「めぐり逢う理由」 (第六章 ばいばいげんちゃん)-1-
ばいばいげんちゃん
美雪が婚約した。
そんな社内の噂話を真っ先に耳にしたのは、美雪に対して偏った愛情をずっと持ち続けていた経営企画室室長の青山だった。
「社長、美雪さんが婚約したっていうのは本当ですか!」
「いえ、婚約をしたわけではありません」
「じゃあ、デマなんですね。単なる噂話なんですね」
「ええ、ただ……」
青山を美雪の結婚相手に考えていた佳恵は、噂話に振り回されてただおろおろするばかりの目の前の男に同情した。
「ただ? ただ何なんです?」
「ただ、お付き合いをさせて頂いている方がいます」
「えっ? 誰です、それは誰なんですか?」
「帝都銀行の梶原常務のご子息。清太郎(きよたろう)さんです」
「…………」
佳恵に引導を渡された青山は、言葉を失いその場に崩れ落ちた。
「お母さま、私、今回の梶原常務のお話、お受けしようと思います」
「美雪、あなたどこからその話を?」
帝都銀行の梶原常務との会食以来、ずっと何かを悩み続けている佳恵の姿を不審に思い、美雪はこのところ佳恵と行動を一緒にしている村上を問い詰めてその理由を聞き出した。もちろん、村上は佳恵に口止めされていたが、美雪の執念に最後には折れた。
「美雪、いいのよ。会社のためにあなたが犠牲になることはないわ。これは私の問題です。あなたは自分の幸せを考えなさい」
「いいえ、お母さま。私は五葉電機をお創りになったお爺さまの孫よ。西園寺家の三代目です。私の幸せは西園寺家を、五葉電機を守ることです。そして、それが五葉電機で働く従業員の方の幸せを守ることに繋がるのなら、私は喜んでこのお話をお受けいたします」
「美雪、あなた、そんなことを考えていたの? 本当にそれでいいの? 他に好きな人とかはいないの?」
「いません。今は、もういません。以前に想いを寄せた方はいました。でも、その方とは今生では添えないものと諦めました。その代わり、生まれ変わってまたいつかお会いすることを約束しました」
「ごめんね。美雪……うっ、うう」
「お母さま。泣かないでください。私は幸せを諦めたわけではありません。今までお父さまやお母さまに甘えてばかりで、私の方こそごめんなさい。これからは、この会社をりっぱに経営していくことが私の幸せです」
「美雪……美雪……うっ、うう」
佳恵は美雪にすがるようにして泣いた。あの強くて厳しかった母が、今自分の胸で子供のように泣きじゃくっている。美雪は母を抱きしめ、この母のためにも会社を立て直す決意を新たにしていた。
青山が聞いた単なる噂話が本当のことになろうとしていた時、東京を離れる日を明日に控え、現太は早苗の手も借りて荷造りに追われていた。
「なあに? その絵。現ちゃん自分で描いたの?」
そう言い残して、早苗は玄関先に荷物を運んで行った。
「いや、もらったんだ。昔……」
現太は古びた画用紙に描かれた一枚の絵を見ていた。その絵の右上には、幼い子供が書いたと思われる字で『げんちゃんおうじ』と書かれていた。
美雪の描いた絵だった。穴の開いたランニングシャツを着た、坊主頭のげんちゃんの絵だった。
「ばいばい……か。今度こそ本当に“ばいばい”だな」
現太は絵に描かれた文字を見て呟いた。
「現ちゃーん、この荷物どこへ置けばいい?」
玄関の方から早苗の声が聞こえた。
「ああ、今そっちに行くよ」
そう言うと、現太は見ていた絵をくるくるっと手で丸め、箱の中に詰め込んだ。
「ピーンポーン」
現太が玄関先まで行くと外で誰かが呼び鈴を鳴らした。早苗が覗き穴から外を見ると、そこには中年の男が立っていた。男は自分の背広の内ポケットの厚みを確認しながら、落ち着かない様子で中の住人が出てくるのを待っていた。
「あの人、確か……」
そう言って、早苗は急いでドアを開けた。
「朝早く申し訳ございません」
早苗がドアを開けると同時に男は頭を下げて言った。
「あなた、確か……美雪さんのところの運転手さんよね?」
「はい」
その男は村上だった。
「何かあったんですか?」
現太は美雪の身に何かあったのかと思い村上に向かって言った。
「現太さんにお渡ししたいものがございます」
「俺に?」
「はい」
村上は胸の内ポケットから一通の封筒を取り出し、それを現太に手渡した。
「お嬢さまからです」
「美雪から?」
「現太さん、お嬢さまは幸せになれるのでしょうか? 私にはそうは思えません。私は……私はあなた以外の方とお嬢さまが結ばれても、お嬢さまが幸せになれるとは思えません!」
「げ、現ちゃん」
思い詰めたように肩を震わせ拳を握りしめる村上の顔を見て、早苗が現太の持つ手紙を指さした。
現太は急いで手紙の封を切った。
げんちゃんへ
子供みたいな書き出しでごめんなさい。でも、私にとって現太さんは、昔、幼稚園で初めて会った、あの時のランニングシャツ姿のげんちゃん、そのままなのです。遠い昔のことなので、現太さんはもう忘れてしまったのかもしれないけれど、私はまだ四歳だったあの頃のことを今でもはっきりと覚えています。げんちゃんがおばさんと二人で一生懸命に机を運んでいたこと、私をいじめっ子から守ってくれたこと、一緒にクレヨンを拾ってくれたこと、いじめっ子から黄土色のクレヨンを取り返してくれたこと、泣き虫だった私の涙をハンカチで優しく拭いてくれたこと。
それまでは、幼稚園の帰りの時間になるといじめっ子と二人になってしまうのがとても嫌で、毎日が寂しく憂鬱でした。でも、げんちゃんが幼稚園に来るようになってからは、その帰りの時間が楽しみになりました。“今日もげんちゃんに会える“そう思うと自然と勇気が湧いてきて、私は元気になることができました。
私を元気にしてくれる優しいげんちゃんは、あの頃の私の王子様、げんちゃん王子だったのです。こんなことを書くと、きっとあなたは笑うのでしょうけれど、げんちゃんは魔法が使えるんだとあの頃の私は真剣にそう思っていたのです。
一年前、街であなたと偶然再会したあの日から今日まで、とても楽しい毎日でした。子供たちの野球の試合を夢中になって応援したり、一緒にお昼を食べたり、大人になっても泣き虫な私は、げんちゃん王子と今度は子供たちからも、また勇気と元気をもらったような気がしていました。もう一度げんちゃんに会えるなんて思ってもみなかったけれど、憧れや思い出などではなく、心のどこかで私はずっとあなたを探し続けていたのかも知れません。
近頃、昔あなたに背負われた時のことを時々夢に見ます。でも、不思議なの。あれは確かに私の通う幼稚園での出来事だったのに、あなたといる場所はいつも橋の上なのです。あなたの優しいおばさんが虹橋と呼んでいたあの橋の上で、私はあなたの背中であなたの温もりを感じながらとても幸せな気持ちに包まれているのです。
会社のために結婚するなんて、何事にもまっすぐな心で向き合う現太さんは、きっと私のことを軽蔑するでしょう。でも、私は母が悲しむ姿をただ黙って見ていることができませんでした。これは、私の生まれ持った運命なのだと今は自分の心にそう言い聞かせています。
もう二度とお会いすることはないと思います。だから……
だから、せめて最後にあなたの魔法で私を四歳のあの頃に戻らせて。
げんちゃん、ありがとう。
ばいばい。
「美雪……。どこです、美雪はどこにいるんですか?」
手紙を読み終わった現太は、現太のその言葉を待っていた村上に向かって言った。
「今夜、品川のウエストリッチホテルでお嬢様とお相手の方との結納が行われます」
「品川のウエストリッチホテルですね?」
「行くのね? 現ちゃん」
「勘違いするな。俺は美雪を奪い返しに行くわけじゃねえ」
「じゃあ、どうするの? 美雪さん、好きでもない相手と結婚しちゃうのよ」
「それはあいつが決めたことだ。あいつが、悩んで決めたことだ。それを俺がとやかく言うつもりはねえ。ただ、あいつには幸せになってもらわなきゃ困るんだ。あいつは絶対に幸せにならないと駄目なんだ!」
早苗には、すべてがもう手遅れであるように思えた。現太は何をするつもりなのだろうか。(つづく)