「めぐり逢う理由」 (第六章 ばいばいげんちゃん)-2-
夜、村上が言っていた通り、品川のウエストリッチホテルの最上階に美雪と佳恵、それに帝都銀行常務の梶原夫妻と一人息子の清太郎の姿があった。
「やあやあ、佳恵さん、それに美雪さん。今日の結納式は実によかった。これで二人は晴れて婚約ということだな。はっはっは」
梶原は上機嫌だった。
「さあ、後はゆっくり食事を楽しみましょう。そして、若い二人の未来を祝福しましょう」
梶原常務の息子の清太郎はいわゆるプレイボーイで、美雪との結婚を決めてからは、それまで付き合っていた複数の女との関係を断ち切るための後始末に追われていた。結婚式を迎えるまでには、何とかすべてを清算しなければならなかった。
「美雪さん、ぼくは世界一幸せな男です。あなたのような素敵な女性とめぐり会えて」
後始末が終わっていない不安を自分の顔には微塵も出さず、清太郎は満面の笑みを作って乾杯の挨拶代わりにそう言った。
「私は清太郎さんが思ってくださっているような、そんな人間ではありません」
「美雪さん、そんな謙遜して。あなたの素晴らしい経歴は全部知っていますよ。あの名門のハーバード大学を優秀な成績で……」
「お父さん、美雪さんが困っているよ。美雪さんはそういうことを自慢したりしないんだよ」
「お、そうか。すまん、すまん。お前は美雪さんのそういう控えめなところが好きなんだよな?」
「お、お父さん!」
「おっ、こりゃいかん。年寄りは少し黙るか」
そう言いながら、梶原はコップに注がれた高級ワインを一気に飲み干した。
梶原家の一方的な会話で食事が半ばを過ぎた頃、清太郎が席を立った。「少し黙るか」と言った割には、相変わらず上機嫌にしゃべり続ける父親に気兼ねしてタイミングを失っていたが、清太郎はようやく我慢していたトイレに立つことが出来た。
両家の食事会のために貸し切られた部屋を出て、トイレに向かう清太郎の後ろを見知らぬ男がついてきた。
―「お前が美雪の婚約者か?」―
「だ、誰だ? お前」
「誰だっていいさ」
現太だった。そこにはスーツ姿の現太が立っていた。
「ここは、お前のようなチンピラが入れるような場所じゃないぞ!」
現太を見た、清太郎の表現は正しかったのかも知れない。ここへ来る途中、現太とすれ違ったホテルにいた客の女性が見惚れるほど、現太のスーツ姿は決まっていたが、どうひいき目に見ても堅気の人間には見えなかった。
「さては、おまえ美雪さんのストーカーだな」
何に怯えているのか、清太郎はチンピラ風情では飽き足らず、今度は現太を美雪のストーカーに仕立て上げた。
「美雪さんは美人だからな、無理もない。あの美貌で頭もよく、一部上場企業の次期社長だ。諦めろよ。お前みたいな人生の負け組とは、所詮住む世界が違うんだよ。同じ時代に生きていると言うだけで、俺や美雪さんが乗っているレールとお前の乗っているレールは決して交わることはないんだよ。とっとと帰れ!」
現太の着ていたスーツが安物か高級なものかを見抜く力は、ブランド好きな清太郎には当然ながら備わっていた。清太郎は勝ち誇った顔で、そんな蔑んだ言葉を現太に投げ付けた。
「言いたいことはそれだけか?」
「何だと?」
「確かに俺とお前とでは住む世界が違うんだろう。あいつが……美雪が幸せになれるなら、それが運命だと言うのなら相手はお前でもいいさ。でもな、もしも美雪を泣かすようなことしてみろ。我慢強いあいつが人知れず涙を流さなきゃならないような、そんな真似あいつにさせてみろ。そんときゃ、お前がどこにいても、俺は必ずお前を探し出してお前のこのキンタマ、握り潰してやるからな。いいな! 覚えとけ!」
現太は清太郎の股間を握りそのまま片手で体ごと持ち上げた。一瞬、清太郎の両足が床から浮いたようにも見えた。
「だ、誰なんだ、お前。ま、まさか、あの時の……」
清太郎が震える声で言った。
「あの時のかどうかは知らねえが、俺はげん太だ。片山現太だ!」
清太郎の顔からみるみるうちに血の気が引いていった。
―フラッシュバック―
過去の記憶……それも大体においては恐怖の記憶が蘇ることを指す。清太郎の脳の中に幼い頃に埋め込まれた、恐怖という名の地雷のスイッチが押された。地雷を埋めたのも、今そのスイッチを押したのも共に現太だった。
美雪が四歳の時、美雪の通う幼稚園に美雪をいじめるいじめっ子がいた。ある日、そのいじめっ子はげんちゃん王子の魔法によって罰を与えられた。体が石になったように固まり、美雪の目の前でおもらしをしてしまうほどの厳罰だった。あれから二十年、封印されていた清太郎の記憶が海馬の奥底から顔を出した。
現太が清太郎の股間から手を離すと、まるで排水口の栓が抜かれたように清太郎の股間から小便が溢れだした。
「いいな? 俺はずっとお前を見ているからな」
現太がその場を立ち去って間もなく、トイレからなかなか戻ってこない息子を心配して清太郎の母親がやって来た。母親はその場に座り込んで上も下も半泣き状態の息子を見て叫んだ。
「キャー! 清ちゃん、清ちゃん、誰か! 誰か来て!」
母親の叫び声を背中に聞きながら現太が呟いた。
「けっ、胸くそ悪りい。あのマザコン野郎が」
慌てて現場に向かうホテルの従業員たちは、誰もその場をひとり立ち去る現太に気付く者はいなかった。(つづく)