「あなたへのダイアリー」 (第五章 不信)-4-
「冴木さん、お腹すいたでしょう? どれがいいですか? わたし取ってあげる」
優子は、さっきにも増してすっかり亮介の彼女気取りだ。お昼を食べながら、優子は亮介にいろんな話をした。学校のことや源治のこと、先日の試験がまあまあの出来であったこと。亮介は、優子の話をひとつひとつ丁寧に聞いた。特に源治とのことでは、「それは、優子ちゃんの方が悪いなぁ」と、優子に注意するようなことも言ったが「へへ、ごめんなさい」優子は亮介にそう言われることもまたうれしそうだった。
「あーお腹いっぱい。冴木さんはお腹いっぱいになりました?」
「ああ、とってもおいしかったよ。優子ちゃんは料理も上手だし、きっといいお嫁さんになれるね」
「えー、そんな……」
優子がそう言って顔を真っ赤にして照れていると、その足元にゴムボールがひとつ転がってきた。
「おねえちゃん! それ取って」
近くで遊んでいた三人の子供たちが両手を上げて叫んでいる。
「ん? ああ、これね」
優子がそのボールを投げてやると、
「おねえちゃんも一緒にやろうよ。一人足りないんだよ」
何の遊びかは分からないが、どうも四人でする遊びらしい。これ以上亮介に見つめられると、胸が苦しくなりそうだった優子は、その子供たちの誘いに応じた。
「ちょっと、あの子たちと遊んできてもいいですか?」
亮介が微笑みながらうなずくと、優子は子供たちの輪の中に入っていった。亮介は子供たちと遊ぶ優子の姿をベンチに座ったまましばらくぼんやりと眺めていた。そして、もし自分と貴美子が結婚していたら、こんな家庭を築いていたのだろうか。今、そこにいるのが優子ではなく貴美子で、一緒に遊んでいる子供たちの中に幼い優子がいて、毎週末には家族でこうして出かけてくる。そんな幸せな日々が自分にも訪れたのだろうか。そんなことを想像していた。いや、そんな夢を見ていた。しばらくして、優子がボール遊びから戻ってきたときには、亮介はいつの間にかテーブルに突っ伏したまま寝てしまっていた。
「あれ? 冴木さん、寝ちゃったの? いくらいいお天気だからと言って、こんなところで寝たりしたら風邪ひいちゃうわよ。せめて、上着くらい掛けないと……」
テーブルに放り出された亮介の逞しい腕が見えた。さっき、蜂に襲われそうになった時も、そしてあの時、おやしろ祭の帰り道、自転車とぶつかりそうになった自分を助けてくれたあの時も、いつも亮介はこの腕で抱きしめてくれた。優子は寝ている亮介の顔をじっと見つめた。亮介にそっと触れたくてその腕に手を伸ばしたが、腕時計をはめた左腕の外側に大きな傷跡があることに気が付き思わずその手を止めた。
“この傷、どうしたのかしら……”
よく見ると、亮介の腕にはそれ以外にも細かな傷が無数にあった。亮介の優しい笑顔からは想像できない、とてつもない苦労の跡がその腕から感じ取られた。
“冴木さんは、いったいどんな仕事をしていたんだろう”
優子はこの時初めて、亮介がどんな仕事をしていて、なぜこの街に来たのだろうかと思った。亮介に触れようとした手を戻し、代わりに亮介の脱いだ上着を掛けてやろうと思い、優子はテーブルの上やビニールシートの上を探したが、亮介の脱いだ上着をすぐに見つけることができなかった。
「おかしいなぁ、冴木さんどこに脱いだのかしら……」
そして、テーブルの周りを一周した時、それが亮介の足元に落ちていることに気がついた。
「やだ、こんなところに落として。上着が汚れちゃうじゃない」
優子は亮介の足元にしゃがみ込み、急いで亮介の上着を拾い上げた。と、その時、上着の内ポケットから何かがするりと地面に落ちたことに気づいた。
「あれ? 何か落としちゃったわ」
落としたものを拾おうと、再び亮介の足元にしゃがみ込んだ優子が目にしたものは、白い一通の封筒と二枚の紙きれだった。紙きれの一つは、先日のおやしろ祭の時に優子が亮介に渡したチケットの半券だったが、もう一枚の方は何かが走り書きされたメモ用紙だった。優子はそれを読むつもりはなかったが、そこに『フクベェ』という文字が書かれているのを見つけ、思わずその走り書きの文字を読んでしまった。
フクベェ
優子ちゃん、貴美ちゃんの娘
生まれ変わり? 貴美ちゃんの
秘密
わずか数行の短いメモだったが、優子を驚かせるには十分だった。“冴木さんが書いたのかしら……” 自分の母親と何の接点もないはずの冴木が『貴美ちゃん』と書かれたメモを持っていることに違和感を覚えた。
「いったい、どういうこと?」
そう呟くとともに紙切れと一緒に封筒が落ちたことを思い出し、優子は慌ててそれを拾った。優子が手にしたその封筒は、亮介がナイロビの大使館で受け取った貴美子からのあの手紙だった。あの日以来、亮介はずっとその手紙を肌身離さずに持っていた。
「どうして! どうして、これを冴木さんが持っているの」
そして、それは何故か、優子にとっても見覚えのある封筒であった。
「ごめん……」
封筒の裏に書かれた『牧村貴美子』の文字をじっと見つめていた優子の耳元で亮介がそう囁いた。驚いた優子が、亮介の顔を見ると亮介はまだ眠ったままであった。
「ごめんね……」
再びそう言った亮介の目から、一筋の涙が頬を伝わって降りた。
「まさか……。冴木さんがあの中谷亮介なの? 私のお母さんを悲しませた、あの中谷亮介なの?」
優子は不安な気持ちを抑えながら、手に持っていた手紙と二枚の紙きれを亮介の上着のポケットに戻した。そして、その上着を亮介の背中に掛けながら、亮介がまだ目を覚まさないことを祈った。
“冴木さん、今あなたが目を覚ましたら、私はどんな顔をしてあなたを見つめればいいの?”
さっきまで一緒に遊んでいた子供たちが、親に連れられて帰って行った。子供たちが優子に向かって手を振ったように見えたが、優子はそれに気づかなかった。
「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ホーホケキョ!」
遊び疲れたうぐいすも、優子の頭の上で一鳴きして両親の待つねぐらへと帰って行った。
優子は一人だった。すぐ傍には亮介がいたが、優子の心は孤独だった。
「もう、寂しいのはいやよ。もう……」
いつの間にか、空には怪しい雲が広がっていた。優子の落とした涙だったのか、それともパラつき始めた梅雨の雨粒だったのか、空を見上げた優子の頬が微かに光っていた。(つづく)