「あなたへのダイアリー」 (第六章 日記)-2-

 優子は日記帳を閉じたままあれこれ考えてみたが、母親が亮ちゃんと呼ぶ相手が見つからなかった。源治から聞かされていた貴美子の別れた夫、つまり優子にとっては父親であるがその名前でもなかった。

「誰なんだろう、お母さんの昔の恋人かな?」

 そう思ったらさっきまでの自制心が解け、どうしても読んでみたいという好奇心の方が勝ってしまい、優子はもう一度貴美子の日記帳を開いた。よく見ると、当然ながら日記が書かれた時の日付が、ページの右上に書いてあった。

「平成元年……っていうと、1989年だから、えーと、お母さんが十七歳の時かぁ。五月ってことは、お母さんのお誕生日は九月だから、うーん、高校三年生になったばかりの頃ね」

 優子は頭と指を駆使して日記の書かれた時期を割り出した。そして、『亮ちゃん……』から始まる最初の文章を読み始めた。

  亮ちゃん、今日観た映画、『初恋・あなたへ』どうだった? 亮ちゃんはあまり恋愛映画とか興味ないでしょ? だって、途中寝ていたものね。でも、私が観たいって言ったから無理して付き合ってくれたのよね。本当は野球の練習で疲れているからゆっくり休みたかったんじゃない? でも、そんな優しい亮ちゃんが私は好きよ。あなたに出会えて本当に良かった。これからもずっと一緒にいてね。

 「やだ、お母さん……かわいい」

 優子は自分のことのように照れた。ページをぱらぱらとめくると、日記は最後の二、三ページを残し、びっしりと書かれていた。優子はそれを源治には内緒にして、毎日数ページずつ読むことにした。そして、読み進めていくにつれて、母親が自分が思い描いていたようなやさしくて素敵な人で、どんな青春時代を送ったのかがよく分かった。

 読み始めて三日目くらいの時、優子は貴美子の日記に自分の名前が書かれているのを見つけた。

「え? どうして私の名前が……」

  亮ちゃん、今日街で見かけた幼稚園の子供たち、とっても可愛らしかったわね。黄色い帽子を被って一列に並んで、本当に可愛らしかった。もしも……。もしもよ、将来私に子供ができたら、それは女の子がいいなぁ。その子が大きくなったら一緒にお買い物に行ってみたいし、好きな男の子の話なんかもしてみたいわ。洋服の趣味とかは似るのかなぁ。名前は……そうね、『優子』って名前がいいかな。人に優しくできる子で『優子』よ。それに、きっと勉強もできる子よ。優秀の『優』でもあるからね。でもちょっと、期待をかけすぎかしら?

  自分の名前に母親のそんな思いが込められていたことを優子は生まれて初めて知った。

「私も、お母さんと一緒にお買い物に行ってみたかった。それに、今はまだいないけど、好きな男の子のことも話してみたかった。洋服の趣味は…お母さんに似ているの? わからないわ。だってお母さんいないんだもの!」

 母親がいない寂しさには慣れていたはずだった。でも、それは、母親のことをほとんど何も知らなかったからこそ耐えられた寂しさだった。日記を読んで母親のことを知れば知るほど、貴美子に会いたい気持ちが優子の中でどんどん膨らんでいった。

「会いたい……。お母さん、会いたいの。どうして、私を置いて死んじゃったの? ねえ、お母さん……」

 机の上に置かれた貴美子の写真は、優子に向かって微笑むだけで、何も答えてくれない。優子の目から溢れ出る涙は、しばらく止まりそうもなかった。

 それから数日、毎日その日記を読み続けた優子は、時には日記の文面に問いかけたり同意したりした。また、時には驚かされたり、感心させられたりもした。優子は、これまで母親に聞きたかったことや伝えたかったことを貴美子の日記を通して会話したような気がした。

 日記の書き出しは必ず、『亮ちゃん』から始まっていた。だから、一つ一つの日記は、日記というよりも貴美子から亮介への短い手紙のようであった。

「お母さん、この亮ちゃんって人のことが本当に好きだったのね」

 貴美子が如何に亮介のことを想っていたのかということが優子にも分かった。

「亮ちゃんって、どんな人なんだろう。きっと、かっこいい人よね。だって、私のお母さんが好きになった人だもの。いいなぁ、私にも素敵な恋人ができるかしら? 亮ちゃんみたいな人が恋人だったらいいのになぁ」

 貴美子の言う『亮ちゃん』に対して、いつの間にか自分の淡い恋心を重ね合わせながら日記を読み続けていた優子だったが、最後のページを読んだ時、優子の生まれて初めての恋心は淡雪のごとく消えてなくなった。

 亮ちゃん、どうして今日、来てくれなかったの? 私、フクベェと一緒にずっと待っていたのに。お祭り、一緒に行こうってあんなに約束したのに……

 このまま、もう会えないなんてことはないよね。ずっと、いっしょにいるって約束したよね。亮ちゃん、さびしいよ。私どうしたら……

   最後の日記には日付も書かれていなかった。そして、貴美子の涙で濡れたのだろうか、インクの文字が滲んでいた。

 貴美子の日記によれば、『亮ちゃん』は貴美子に黙って町を出て行ってしまった。何があったのか理由は書かれていなかったが、突然、何も聞かされず、好きな人が自分の前からいなくなってしまった、貴美子の深い悲しみが伝わり、それを読んだ優子はひとり涙した。

「許せない! お母さんをこんなに悲しませて……。許せない」

 それがこの時、優子が亮介に持った感情だった。五年経った今も、その日記は優子の勉強机の本立てにずっと置かれている。辛いときや悲しいとき、この机に座ると優子は母親に抱きしめられ、そして見つめられているような気がするのだった。

 優子が『許せない……』そう思った中谷亮介という名前については、その記憶を胸の奥底にしまい込んだ。母親の幸せそうな様子だけを覚えておきたいと思った。もしもあの時、近所の写真館の店主が優子を呼び止めて、いつものようにジャイアンツの自慢話を聞かせようと思わなければ、そして、優子が大好きなアマンドのパイにつられ、店主の話に付き合おうと思わなければ、中谷亮介という名前はきっと、そのまま優子の記憶から永遠に消え去ってしまったのかもしれなかった。(つづく

 

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