「あなたへのダイアリー」 (第四章 おやしろ祭)-2-
「いらっしゃい! あっ、毎度どうも」
亮介が店に入ってきたことに気が付き、背中を向けて鍋を転がしていた大将がこちらを振り向いた。
「こ、こんばんは」
亮介は少し気まずそうに、店の入口に置いてある上着掛けに自分の上着をかけてからカウンターの一番奥に座った。店の中をぐるりと見やると、奥の座敷にはすでに先客が四、五人座っているようだったが、優子の姿はどこにも見当たらなかった。
「優子のやつ、冴木さんがなかなか来ないもんだからどうしたんだろうって、うるさくてねぇ。冴木さんにだって都合があるんだから仕方ねえだろうって言ってやったんですがね」
夕方、六時を過ぎていたが、亮介の期待とは裏腹に優子はまだ学校から帰っていなかった。なんでも大将の話では、高校の文化祭が近いのでその準備のため少し遅くなるとのことであった。
店に優子はいなかったが、大将は優子からあの日のできごとを聞いていたようで亮介の名前も知っていた。そのせいなのか、それとも亮介の思い過ごしでもともと大して気になどしていなかったのか、大将は亮介を再び店を訪れた普通の客としてごく自然に受け入れてくれた。
「そうですか。じゃあ、優子ちゃんがいないときに来たら怒るかな?」
「まあ、もうすぐ帰ってくると思いますから、それまでいてやってください」
「そうします」
亮介は大将の言葉に少しほっとして、すでに目の前に出されていたおしぼりに手を伸ばした。
「何か飲みますか?」
「じゃあ、ビールを」
「へい」
大将が奥にビールを取りに行こうとすると、座敷の客からも声がかかった。
「大将! 生ビール三つとハイボールね」
「あいよ!」
「すみませんね。ちょっと待っていてくださいね」
「ええ」
亮介はひとりで忙しそうにしている大将を気遣った。
「それにしても、優子のやつ遅いなぁ。六時までには帰るって言ってたんだが……」
ぶつぶつとそう言いながら、大将は座敷の客に頼まれた飲み物を手早く用意して持って行った。優子のことが心配なのか、早く帰ってきて店を手伝って欲しいのか、大将はなかなか帰ってこない優子に少しイライラしている様子だった。厨房に戻ってきた大将は、お通しの煮物と小鯵の南蛮漬けを皿の上にのせた。亮介は、カウンター越しに大将の手際のいい仕事ぶりに見入っていた。口ではイライラして文句ばかり言っているが、大将の仕事振りは実に丁寧だった。根っからの職人なのだろう、決まった動きで卒なく作業をこなしていく姿が見ていて気持ち良かった。
「お待たせしました」
大将が亮介の前にビールとお通しを並べた。
「すみませんね。優子のやつ、六時には帰るって言っていたんですがね」
自分のイライラを抑え込むように、大将はそう言って亮介に詫びた。
「いやあ、きっと最後の追い込みか何かで準備も忙しいんでしょう。それにしても、優子ちゃんはいつも元気ですね。青春真っ只中って感じでうらやましいくらいです」
「そうだね。箸が転んでもおかしい年頃だからね。この前なんて、野良猫と睨めっこして勝ったって大喜びでしたよ。何がうれしいんだか俺にはさっぱりで……。それとも、最近の猫は笑うんですかねぇ」
亮介は大将が冗談を言ったのかと思ったが、大将の顔は真剣だった。
「ぷっ。まさか」
亮介は、職人としては非の打ちどころのない実直な大将が、十七歳の少女に振り回されている様子がおかしくて思わず飲んでいたビールを吹きだしそうになった。大将も、亮介にあまりにもくだらないことを訪ねた気がして照れ隠しに一緒に笑った。
「でもね、あいつ時々仏壇に手を合わせて母親に何か話しかけているようなんですよ。何を話しているのか聞いても教えてくれやしない。もっとも、教えてもらってもあいつの話し相手に俺がなれるわけもないんですがね。なんか、目に見えない母娘の絆っていうか、二人の秘密みたいな?俺なんかいつも蚊帳の外ですよ」
大将は冗談のつもりで言ったのだろうが、貴美子と優子の間にはやはり何かあるのではないだろうか? 亮介は『二人の秘密』という言葉が気になっていた。(つづく)