「あなたへのダイアリー」 (第三章 生まれ変わり)-3-

「亮ちゃん、遅いなぁ」

「フクベェ、亮ちゃんまた遅刻よ。罰としてちょっと驚かしちゃお」

 二十七年前、貴美子はそう言ってフクベェの陰に隠れた。しかし、よく見ると貴美子のスカートの裾が少しだけ見えていたので、待ち合わせの時間に遅れてやって来た亮介はそれに気づき、貴美子が目の前に飛び出して来た時には、貴美子が期待したほど驚かなかった。

「なーんだ、つまんないの。せっかく驚かそうと思ったのに! 亮ちゃん、どうして驚いてくれないのよ!」

 今思えば、随分と一方的な理由で貴美子に怒られた気がするが、そう言ってフクベェの前ですねて見せた貴美子の姿が、亮介には懐かしく思えた。

 “あの元気だった貴美ちゃんはもういないのか……”

 墓参りも済ませ、貴美子の死は自分なりに受け入れたつもりだった。この前、きみ寿司の店の前に見えた貴美子の幻は、フクベェの隣にはもう見えなかった。それでも亮介が未練がましくフクベェの土台の陰をのぞき込もうとしたその時、息を潜めていた優子が亮介の目の前に勢いよく飛び出してきた。

「こんにちは!」

「わあ!」

 亮介は飛び出してきた優子に驚いて、思わず声をあげて後ずさりした。

「やった、作戦成功! あ、あれ?」

 優子は自分の企てた作戦が成功し、亮介がまんまとそれに引っ掛かったことに一瞬飛び上がって喜んだのだが、すぐに亮介が想像以上に驚いている様子に気づいてあわてて亮介に謝った。

「ご、ごめんなさい。そんなに驚くと思わなかったの。本当にごめんなさい」

 亮介が想像以上に驚いた理由は、優子が亮介に謝った理由のそれとは違っていた。

「貴美ちゃん……」

 まだ、驚いた様子で突っ立ったままの亮介が小さな声でつぶやいた。

「え? 今、何て……」

 亮介は何と言ったのか優子は聞き取ることができなかった。それより、亮介の顔が少し青ざめているように見えて、優子は亮介が倒れてしまうのではないかと心配になった。

「大丈夫ですか? 本当にごめんなさい」

 単なる女子高生のいたずらに、年甲斐もなく青ざめて驚いた亮介の方が明らかに異常だったが、傍から見ても気の毒になるくらい、優子は自分のしたことを反省した。

「ああ、いや、大丈夫。ちょっと驚いたけど」

 心配そうな優子の純粋なまなざしに、我に返った亮介は虚無感と恥ずかしさを覚えた。

「えーと、君は確か昨日お寿司屋さんで会った、大将のお孫さんの……。えーと……」

 もう、目の前の少女が貴美子の幻ではなく、貴美子の娘の優子であることはわかっていたが、今さらながら少し冷静さを装って、そしてわざと名前がすぐには思い出せないふりをした。

「優子……ちゃん。そうだ、優子ちゃんだ」

「はい。牧村優子です。ごめんなさい。私……」

「あ、いや、もういいんだ。本当に。それより、ここで何をしていたんだい?」

 亮介の顔色が戻って優子は少し安心したようだった。

「この子におやつをあげていたんです」

 亮介がフクベェの足元をみると、豆ピーが三つ並べてあった。

「これをきみが?」

「ええ。この子、食いしん坊な顔してるでしょ?」

 “こんなことまで母親に似るのか……“ 亮介は、貴美子の幻ではない優子の顔をまじまじと見つめた。

「どうかしました?」

「い、いや、なんでもない」

 優子に言われて亮介は少しあわてたようにそう答えると、優子から視線を逸らせて再びフクベェの前の豆ピーに目をやった。

「お客さん、失礼ですがお名前は?」

「ああ、ぼくはナカ……。あっ、いや、えーと……。そ、そう、冴木、冴木達也って言うんだ」

 突然、優子に名前を聞かれて、亮介は中谷と言いかけたが、あわてて本名を隠した。この町では中谷の姓を名乗らないほうがいいと咄嗟にそう思ったからだ。そして、思わず口から出たのが、あの貴美子からの手紙をナイロビの日本大使館に転送してくれた先輩カメラマンの名前だった。

「サ・エ・キ……タツヤさん? サエキって、こうですか?」

 優子は指でタクトを振るように亮介に『冴木』という字を書いて見せた。

「ああ、そうだよ。『達也』は達するという字にこの『也』だよ」

 今度は亮介が指でタクトを振った。

「ふーん。『冴木達也』さん。素敵なお名前ですね。冴木さん、ここへは何しに?」

 そう優子に聞かれて、亮介は返答に困ってしまった。本当はフクベェに餌をやろうと思ってやってきたのだが、まさかここで優子と合うとは思わなかったし、ましてや、優子がフクベェに豆ピーをやっているなんて想像もしなかったからだ。

「うん、ああ、えーと、あっそうだ。ここに面白いオブジェがあるって聞いたので……。これがそのオブジェなんだね?」

 亮介はなんとかその場をごまかそうとした。

「そうね。このあたりにはこの子しかいないから……。冴木さん、冴木さんはこの町の人じゃないでしょ? こちらへはお仕事か何かで?」

「ああ、まあ、そんなところかな」

「そうですか。何もないところですけど、よかったらまたおじいちゃんのお寿司食べに来てくださいね…あっ、そうだ。いけない! 冴木さん、今、何時ですか?」

 源治のことを口にした途端、優子は急に何かを思い出したようだ。

「ええーと、五時半を過ぎたところかな」

「あら、たいへーん!! もう、帰らないと。おじいちゃんに叱られちゃうわ」

「おじいさんに?」

「そう、ああ見えて結構口うるさいんです」

 優子は亮介とフクベェにしか聞こえないように声を潜めた。

「そうなの?」

「そうそう、それにね……頑固じじいなの」

 今度は内緒話のように口に手を当ててさらに小さな声でそう言った。その仕草は、さながら商店街で立ち話をして嫁の悪口を言っているおばちゃんたちのようであったが、

「そんなこと言って、いいおじいさんじゃないか」

 亮介がそう言って微笑むと、

「まあね」

 優子もそれに同意した。年頃の女の子としては当然のように、父親代わりの源治に多少の不満を持っているようではあったが、優子の言葉の端々から、母親を亡くしてから今日まで、源治と二人お互い助け合い、支え合いながら生きてきたのだろうということが、亮介にはわかった。

「じゃあ、冴木さん、さようなら。お店、きっと来てくださいね!」

「ああ、近いうちにまた」

 亮介は優子をがっかりさせないためにそう言ったのだが、内心ではもうきみ寿司に行くことはないだろうと思っていた。記憶の中で貴美子の姿が十七歳の夏で止まってしまっている亮介が、優子を貴美子と重ね合わせて見てしまうのはある意味仕方のないことだったのかも知れない。しかし、貴美子にあまりにもそっくりな優子を見ていると、逆に貴美子がこの世にはもういないことを実感させられてしまう。当たり前のことだが、外見や仕草がいくら似ていても、現在(いま)を生きている優子はやはり優子であって、決して死んでしまった貴美子ではないのである。

「では、失礼しまーす」

 優子が亮介に向かって軽く頭を下げ家に帰ろうとすると、さっき追い払われ逃げて行ったはずの野鳩がいつの間にかまた戻ってきて、今度は優子の足元でうろうろし始めた。優子は思わず豆ピーの入ったカバンを後ろ手に隠し、

「あっ、これはだめよ。こら! ダメだってば。フクベェにもらいなさい!」

 そう叫ぶと、野鳩に追いつかれないように走って行ってしまった。優子の叫んだその言葉を聞いて、ひとり残された亮介は、行き場を失いうろうろする野鳩とともに、さっき優子の仕掛けたいたずら以上に驚いた様子で、しばらくその場に呆然と立ちすくんでいた。そして、ひとり言のように

「フクベェ? なぜ、あの子がフクベェという名前を知っているんだ。なぜ、あの子が……」

 そう繰り返していた。

 フクベェという名前は、貴美子が考えて商店街のマスコットの福助に付けた名前で、当時は亮介と貴美子の二人だけの秘密だった。母親のことをほとんど知らないはずの優子がなぜその名前を知っているのか、いくら考えてみても、亮介にはその答えを見つけることができなかった。

「まさか……」

 亮介の脳裏をティムの言った言葉がふとよぎった。

 “リョウ、リョウはその人とリョウの二人だけしか知らない秘密はあるの? もしその秘密を知っている人が現れたら、その人がリョウの大切な人の『生まれ変わり』なんだね”

 しばらくして亮介は、もう一度きみ寿司に行くことを決めた。そして、優子に会って確かめてみることにした。

『生まれ変わり』この世にそんなものは存在しないのだということを……。(つづく

 

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