「あなたへのダイアリー」 (第三章 生まれ変わり)-5-
『あんなこと』とは何のことか、亮介はもちろんそのことを知っていた。老人は、目の前でうつむいているこの男が中谷亮介本人であることなど思いもつかず、当時何があったのか、どうして英徳高校の野球部が甲子園に行けなかったのかをことこまかに話した。それは概ね、亮介が知っていたことと相違なかったが、今でも自分や自分の父親は町の人間に恨まれていると思っていた亮介の思いに反して、老人は当時のことを悔いるように話を続けた。
「あの時、俺もそうだったが、熱にうなされたように誰もが甲子園を夢見ていた。こんな小さな町の高校が甲子園に行ける。がんばれば何かできる、そんな思いが町中に広がっていった。だから、それが叶わなくなっちまったと分かった時、俺たちは亮介の家族にその怒りをぶつけちまった。もっと、冷静にならなきゃいけなかったんだ。せめて、母親と亮介だけでも守ってやらなきゃいけなかったんだ。俺たちは……」
亮介はうつむいたまま、黙ってそれを聞いていた。
「結局、亮介と母親はこの町を出て行っちまった。父親は刑期を終えて出所したが、間もなく病気で亡くなったそうだ。亮介は今頃どこで何しているのか……。もう一度亮介に会うことができたら、俺は謝りたい。亮介に謝りたいんだ。すまなかった。許してくれと……」
並んで座る二人の男はそれぞれに泣いていた。人が許しあい、分かり合うためには時間が必要だ。そのために費やした二十七年という時間が長かったのかそうでなかったのかは、今となってはもう誰にもわからない。
その後、しばらくは黙って英徳高校の試合を見ていたが、結局、英徳高校は試合に負けてしまった。
「ほらな、言った通り二回戦止まりだろ?」
老人はすくっと立ち上がり、尻に付いた土を払いのけた。
「あんた、この町の人間じゃねだろう? 東京の人間か? 都会の臭いがするぜ。そんなあんたにさっきはつまんねえ話をしちまって悪かったな」
「いえ、そんなことは……」
「あんた、仕事は何しているんだい? そんないいカメラ持って」
「い、いやこれは別に大したものじゃ……」
「俺は写真屋だぜ。いいカメラかどうか一目見りゃ分かるさ。何してるんだい? 仕事」
「……」
「ま、言いたくなきゃ言わなくていいけどよ」
「今は、無職です」
「無職? 働き盛りの男が無職かよ。もったいねえ」
老人は何か思いついたように、一つ手を叩いた。
「そうだ! うちに来て店手伝わねえか? あんた、少しはカメラのこと知っているようだし、この時期、意外にも家族写真撮りに来る客が多いんだよ。な?」
「いや、それはちょっと……」
「なんだい、都会の人間は、こんな田舎町の写真屋じゃ働けねえってか!」
「そう言うわけではないんですが」
「ははーん、それとも、何かわけありか? いいんだよ。警察に通報したって」
「な、なんで警察に」
「知らねえのかい? あんな望遠レンズで子供の写真撮るには許可が必要なんだよ。今どきは、プライバシーだとか何だとかで父兄がうるせえんだよ」
「そうなんですか?」
「そりゃ、そうよ」
「どうする? うちに来るか、それとも警察に行くか」
「困ったなぁ」
「じゃ、仕方ねえ通報するか。えーと、番号はと……」
老人は亮介にくるりと背を向けると、ポケットから取り出した携帯で電話をするふりをして見せた。
「あっ、ち、ちょっと待ってください。分かりました、分かりましたよ。お店、手伝いますよ」
「そうかい? いいのかい? 悪いね。無理強いしたみたいで。じゃこっちだ、俺についてきな」
老人はグラウンドに背を向けるとすたすたと歩きだした。その足取りの軽さとやけににやついた顔つきからして、さっきの警察だのプライバシーだのという話はどうもこの老人の作り話だったようだ。
「ちょっと待って、おじいさん」
そうとも知らず、まんまと騙された亮介は、カメラをバッグに押し込むと慌てて老人の後を追いかけた。
「あんた、名前は?」
「冴木って言います」
「さえき? 洒落た名前だな。さすが都会の人は違うね」
「いや、名前は関係ないでしょう」
「冗談だよ。洒落のわからねえ奴だな」
「すみません」
「そうだ、あんた、今度、東京に行ったら、アマンドのパイ買ってきてよ。そのパイが大好きな女の子がいるんだよ。美人だよ。後で紹介してやるよ。でも、惚れちゃだめだぜ。何てたってまだ高校生だからな」
その美人な女子高生と、この老人がどんな関係なのかは知らないが、貴美子も優子も美人だが、この街にはいつの間にそんなに美人が増えたのだろうと亮介は思った。
振り返ると、肩を落としてグランドを去って行く英徳高校の野球部員の姿が見えた。
「お疲れ様。来年、また頑張れよ」
自分はもう彼らの試合を見ることが叶わない、英徳高校の野球部員に向かって亮介はつぶやいた。(つづく)