「めぐり逢う理由」 (第一章 百年前の恋)-2-

「大変です! お父様。プ……いえ、千代丸がいません!」

「千代丸が? 逃げ出したのか? 放っておけ、そのうち腹を空かせて帰って来るだろう。もしかしたら、その辺でもうくたばっているかもな。それならそれで、多み子、お前も散歩させる手間が省けていいだろう? わっはっはっは」

「そうですわ。勝手に逃げたんだから放っておけばいいのよ。番犬として置いてやっているのに大して役にも立たないのですから」

 西條家の人間は相変わらず無機質な言葉を吐いた。

「でも、心配だわ。私、探してきます」

「多み子! 放っておきなさいと言っているでしょ! わからないの?」

「ごめんなさい。奥様」

 多み子は急いでその場から走り出した。

「多み子!」

 多み子は珍しく我を通した。この家でたった一人の、いや、一匹の自分の理解者であるプーがいなくなってしまったのだ。不安と寂しさで多み子の純真な心は押しつぶされそうだった。

「プーさん、どこ行っちゃったの」

 多み子はいつもの散歩道を探して浜辺までやって来たが、プーは見つからなかった。

「み子?」

「あっ! 奈美ちゃん!」

「どうしたの? そんなに慌てて」

「プーさんが……プーさんがいなくなってしまったの」

「え? プーさん、いなくなっちゃったの?」

「ええ」

「私も探すわ。手分けして探しましょう」

「ありがとう。奈美ちゃん」

「じゃあ、私はこっちの方を探してみるわ」

「私は向こうに行ってみるわ」

 二人はそれぞれにプーの行きそうな場所を探すことにした。日曜日ということで学校の授業の心配はなかったが、犬一匹を探すには町はあまりにも広く、雑然としていた。人ごみをかき分け、路地裏や公園、他人の家の庭先まで覗き込んで探したがプーは見つからなかった。

「プーさん、本当にどこ行っちゃったのかしら」

 多み子はふと、山の方を振り返った。

「もしかして」

 ひとつだけ思い当たることがあった。この前、プーに橋の話をした。人の言葉がわかるはずはないが、多み子はプーがあの橋の向こうにいったのではないかと思った。

「プーさん、まさか」

 荒くれ者たちにいじめられてはいないか、もしかするともっと酷いことをされているかもしれない。そう思うと、多み子は居ても立ってもいられず、気が付くと橋の方に向かって走り出していた。

「プーさん、今、行くわ。待っていて。プーさん!」

 多み子はプーを見つけたい一心で、袴姿に短ブーツとおよそ運動するには不向きな格好のまま、五キロもある道のりを走り続け、ようやく橋の袂にたどり着いた。息をするのも苦しく、多み子の足はもう棒のようになっていた。

「はぁ、はぁ、はぁ、こ、これを渡ったのかしら」

 橋を遠くから見たことはあったが、近くで見るとその大きさと風格に多み子は圧倒された。

「す、すごく大きいのね」

 全長は百五十メートル余りで、車や自転車は渡ることができない。人や犬や猫が一歩ずつ橋板を踏みしめながら、ゆっくりと渡ることだけが許されている。その昔、初めて橋が架けられた頃には、牛や馬もその風景の中にいた。

 橋を渡るとき、まず正面に見える空に向かって三十段ほどの階段を上る。それを労して上りきると、体に川面を吹き抜ける風を感じたのもつかの間、今度は清流を脇目に三十段の階段を下ることになる。それを三回繰り返すとようやく川の向こう側に渡ることができる。当時、空から見た者は少なかったと思うが、三連のアーチ型のこの橋を上から見下ろすと、川を跨いで横たわる龍の背中のように見えた。『龍背大橋』の名前の由来だ。

「龍……背大橋? 何か怖そうな名前だわ」

 多み子は橋の脇の立て看板の消えかけた文字を読んだ。プーは本当にこの橋を渡ったのだろうか? 自分の想い過ごしではないだろうか? 多み子はその場でしばらく自問自答を繰り返していた。

「プーさーん!」

 橋の袂から向こう岸に向かって大声でプーを呼んでみたが、多み子の声は水量豊富な川の流音に消されてしまった。

 (荒くれ者が大勢いるのよ)ふと、奈美の言葉が耳を霞めた。多み子は、向こう岸の手前まで行ってプーを呼んでみようと思った。もしも荒くれ者が追いかけてきたら急いで引き返せるように、橋の最後の下り階段は下りずに上からプーを探すつもりだった。多み子はゆっくりと橋の階段を上り始めた。

「大丈夫、大丈夫、プーさんはきっと見つかるわ」

 多み子は自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。奈美を連れてくればよかった。あれほど反対していたが、事情が事情だけに奈美も話せばきっとわかってくれたはずだ。年は同じだが、いつも自分のことを子ども扱いする姉貴肌の奈美がいてくれたらどんなに心強いことか。多み子は後悔した。しかし、奈美を呼びに行っている時間はない。何としても日が暮れる前にプーを見つけなければ……。

 疲弊した足でようやくたどり着いた多み子が目にしたものは、今まで見てきた華やかな町の風景とはあまりにもかけ離れた、山と森だけの世界だった。橋から降りた道は森の中へと続いている。しかし、橋から見えるのは木漏れ日が差し込む、入口から精々五十メートル先くらいまでだった。途中の巨木を目印に道はそこで大きく折れ曲がり、その先に道が続いていることさえ疑われた。とてもひとりでは行けそうもない。多み子はやはり橋の上からプーを探すことにした。

「プーさーん! プーさーん!」

 大声で叫んでみたが、何の反応もなかった。

「あの森を抜けると、その先には何があるのかしら」

 ふと、そんな好奇心が沸いた。

「あの森の入り口まで行ってみようかしら」

 多み子は初めの自分との約束を破り、橋の階段を降り始めた。多み子が橋を渡り終えそうになったその時、

「プー、プー」

 どこからか、プーの鳴き声が聞こえた。

「プーさん?」

 多み子は階段を下りる足を止め、あたりを見回してみた。

「プー、プー」

「プーさんなのね? どこ、どこにいるの! キャー」

 多み子は急いで声の聞こえる方に行こうとして、思わず橋の階段を踏み外してしまい左の足首を挫いてしまった。

「痛ったーい」

 橋の階段に尻もちをついたまま、挫いた足首をさすっていると、森の中からプーが多み子を目掛けて走り寄ってきた。

「プーさん! よかった」

 多み子は足の痛みも忘れてプーを抱きしめた。そして、自分の顔を舐め回すプーの顔を両手で掴むと、今度は唇をきゅっとつぼめて真剣な顔つきでプーを叱った。

「ダメじゃない! 黙ってひとりでこんな遠くまで来て」

 おおよそ犬を叱る言い草ではないが、プーは多み子にとって奈美と同じくらい大切な友達なのである。

「プゥ……」

 プーは反省しているようだった。プーの罰の悪そうな顔を見ていたら、これ以上叱ってはかわいそうに思えてきた。

「さあ、プーさん、帰りましょう。早く帰らないと日が暮れてしまうわ」

 そう言って橋の階段を上り始めた途端、多み子の左の足首に激痛が走った。

「い、痛っ」

 思わず足首を抑えた多み子の手をプーは申し訳なさそうに舐めた。

「どうしよう。これじゃ歩けない」

 多み子はこの足ではとても上れそうもないと、橋の階段を恨めしそうに見上げた。春先とはいえ、午後の四時過ぎともなれば日も傾き気温も下がり寒くなる。プーが居なくなった時とはまた別の不安が、というよりはむしろこの場から動けないという恐怖のような感情が多み子を襲った。

 

 ―「お前、町の人間だな?」―

 

 と、その時、多み子の背後から男の低い声がした。

 足の痛みに気を取られていて、多み子はいつの間にかそこにいた男にまったく気付いていなかった。その男は森の方からやって来たようだった。

「だ、だ、だ、誰!?」

 多み子は突然のことに驚いて、振り向くと同時にそのまま橋の階段に再び座り込んでしまった。男は無言のまま、多み子の方に近づいてくる。多み子は思わず身構えた。

「あ、あなた! あなた、誰、誰なの!?」

 男は無言のまま、なおも多み子に向かって歩いてくる。

「さ、さては、あなた、荒くれ者ね! ひ、ひ、人を呼びますよ!」

 いきなり荒くれ者呼ばわりされ、男は怯える多み子に呆れたように自分の頭を掻いて見せた。

「人を呼ぶだと? わっはっは。馬鹿か? お前。人など来るものか。猿なら来るかもしれんがな」

 もう多み子の目の前まで来ていた男が、止めていた足を一歩前に踏み出そうとした。

「来ないで! それ以上、来ないでください!」

 多み子はそこから逃げようとしたが、足首が痛い上に腰まで抜けてしまい、どうすることもできなかった。(そうだ、プーさんは?)ご主人様の一大事、忠犬ならこんな時真っ先に男にとびかかって自分を救い出してくれるだろう。多み子はそんな期待を持ってプーを見たが、プーは男の後ろでしっぽ振って呑気にこちらを見ているだけだった。男は多み子の前でしゃがみ込み、多み子の挫いた方の足首を手で掴んだ。

「キャー、何するの!」

 男は多み子の問いかけには無言のまま、掴んだ足首を持ち上げた。多み子は思わずのけぞるような格好になってしまい、慌てて片手一本で体を支え、もう一方の手で袴の裾を押さ込んだ。

「い、いやー、やめて! 誰か、誰か助けてください! 誰か!」

 多み子が力の限り必死に叫んだ声は、儚くも川の流音と森の静寂に飲み込まれてしまった。

「もうダメ……」

 観念して、手で顔を覆った途端、多み子の目から一筋の涙がこぼれ流れ落ちた。(お母さん、ごめんなさい)(つづく

 

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