「めぐり逢う理由」 (第一章 百年前の恋)-1-

百年前の恋

 源流は、奈良県大峰山脈を形成する山の一つ、大普賢岳に祖を発するという。切り立った崖とその崖を覆い隠すかのように生い茂る木々は、萌黄色の葉を携えた枝を可能な限り川の水面ぎりぎりのところまで伸ばしている。張り詰めた緊張の糸をほんの僅かでも緩めれば、細くて弱々しい枝々は、たちまち川底へと引きずり込まれてしまうだろう。

 山間(やまあい)に広がる神々と人との世界を隔てる、土色の静寂を打ち破るものは他には見当たらない。まるで、川底に引きずり込まれるのを拒むように、水面を小刻みに叩く枝々とゆっくりとした川の流れ以外、その止まった風景を動かすものはない。

 物語の始まりには丁度いい静けさだった。

 水量豊富な川の水は小雨程度では濁らない。雨上がりの川面にはうっすらと靄がかかることがある。波ひとつ立たない水面に、周りの景色が上下逆さまに映し出されている。それは、あたかもこの世の中に二つの世界が存在していることを思わせた。本物と偽物、陰と陽、表と裏、そんな世界に見えた。

 しかし、この二つの世界はきっと、そういう相反する世界ではなく、ひとつのつながった世界に違いない。悲しい過去から幸せな未来へと続いていくような、例えばそんな世界なのだろう。

 向かい合った崖の間を縫うように、熊野川翡翠色の水を満々と湛え、今日も静かに流れていく。

  時に、時代は大正五年、第一次世界大戦の影響で日本中が大戦景気に沸き立っていた頃、熊野川の支流が海へと流れ込む、見せ掛けの幸福に浮かれた町の片隅で、ひとつの小さな恋が生まれた。それは、大戦の終結世界恐慌の闇へと向かいつつある動乱の世の中から見れば、取るに足らない大した出来事ではなかったが、ひとりの少女にとっては晴天の霹靂、まさに天地がひっくり返るような、生れてはじめての出来事だった。

 そして、その生まれたばかりの小さな恋の泉は、この先百年の後もきっと、今と変わらず湧き出し続けているに違いない熊野川の源流のように、少女の心の片隅で静かに流れ出し始めていた……。

 

「奈美ちゃん、ね、いいでしょ? 一緒に行ってみましょうよ」

 多み子はそう言いながら隣を一緒に歩く奈美の顔を覗き込んだ。

「えーっ、いやよ。先生や親に知れたらきっと大目玉よ。私、叱られたら嫌だわ」

 奈美は多み子の覗き込んだ顔とは反対方向に自分の顔を向け、唇を尖らせた。

「そんなこと言わないで、ね?」

「だぁーめっ!」

 多み子と奈美は、熊野川の支流が流れるこの町の高等女学校に通う生徒だ。青春という言葉がこの時代にあったのかどうか定かではないが、二人とも、いつの世の乙女たちも皆同じように青春時代に抱く、淡く儚い夢と無限の好奇心を持っていた。

 奈美は多み子の幼馴染であり親友だった。

「奈美ちゃん、今日、豆寒天食べに行きましょ?」

「承知!」

「奈美ちゃん、明日、お買い物に付き合ってくれる?」

「承知!」

 奈美は、いつものことなら二つ返事で多み子の提案を承諾してやるところだが、さすがに今回の提案には異議を唱えた。

「どうしても、だめ?」

「だめよ。み子は、どうしてあの橋の向こう側なんかに行きたいの?」

 『み子』とは、奈美が多み子のことを呼ぶときのあだ名である。多み子の親友の奈美は、一日に何度も多み子の名前を呼ぶ必要があったので、いつの間にか簡素化した呼び名が二人の間で成立していた。

「だって、近くで見たことはないけれど、あの橋、素敵じゃない?橋の向こう側にも森が広がっていて何か神秘的でしょ?」

「私も遠くからしか見たことないわ。でも、古臭そうな変な形の橋だし、町の方からわざわざ何もない橋のむこう側に行く人なんていないわよ。それに、橋のむこう側には荒くれ者たちが大勢いるらしいわ。だから、女の子二人だけで行くなんてとても危険よ」

「そうかしら……。でも、一度でいいから行ってみたいな」

 当時、多み子たちが住むこの土地は、熊野川の支流を挟んで海側と山側に分かれていた。造船所や生糸工場がある海側の町には都会的で裕福な家が多かったが、山側の村には町とは対照的に世の中の発展から取り残された人々が、細々と昔ながらの生活を営んでいた。その海と山、町と村を奈美の言う一本の古臭い橋がつないでいた。

 多み子や奈美はいわゆる町のお嬢様で、生れてからこれまで、二人とも何不自由のない生活を送ってきた。特に多み子の父親は町の権力者で、町の大事は多み子の父親の一言で決まることも多かった。ただ、そのやり方が傲慢でかつ強引であったことから、町の人々からは陰で『ごうやん』と揶揄された。

 多み子の父親は自分の家族に対しても『ごうやん』だった。女に勉学など必要ないというのが父親の考えだったが、それでも多み子を高等女学校通わせたのは、つまらぬ金持ちの見栄からだった。金をかけて花嫁修業をさせていると世間に知らしめるためには、娘を一流の女学校に通わせるのが一番わかりやすかった。その証拠に女学校の生徒たちは皆、縁談が決まれば卒業を待たずに結婚して学校をやめた。卒業を待たずに退学することが、器量のよい女子の当時のステータスとなっていた。

 町でも評判の器量よしの多み子は、当然のことながら本人にその気がなくても、来年あたりには縁談も決まり、結婚、出産……と当り前のように時が彼女の人生を押し流していくはずだった。

 

 ―いのち短し恋せよ乙女 あかき唇あせぬ間に―*1

 

 先日、奈美と二人で行った町のカフェーで耳にした、当時流行ったその歌は『ゴンドラの歌』といった。乙女たちに向けられた助言の歌であるように思ったが、“恋せよ”と言われても具体的に何をすればよいのか多み子には分からなかった。“恋せよ”とは、“結婚せよ”ということなのだ。恐らくそうなのだと、その時まだ恋というものを知らなかった多み子はそう理解した。皆がそうしているのなら、自分も父親の思い通りに結婚することに何の迷いもなかった。

 奈美が古臭いと言っていた橋には、『龍背大橋』という大そうな名が付いていたが、町の人間でその名前を知る者はいなかった。と言うよりは、町の人間は橋そのものに興味がなかった。後の世において大正ロマンなどと呼ばれたように、大戦景気に後押しされ文化や経済が一気に花開いたこの時代の人々が、何もない山へ、あるいは、忘れられた村へ行くことだけにしか使い道のない橋に興味など持つはずもなかった。

 だから奈美には、何故多み子があの橋に興味を持つのか、全くもって理解できなかった。もしかしたら、多み子自身もその理由は分からなかったのかも知れない。ただ、必要なものや必要でないものまで何でもそろっている海側の町には、多み子は自分の欲しいものがないように思えた。橋の向こうに行けば、それが見つかるような気がした。ただ、それだけのことだった。

 多み子の家は町の一等地に建っていた。人々から『ごうやん』と呼ばれた父親は名を西條虎之助といい、若い頃投機で成功し、その後は軍需産業で儲けた、いわゆる成金だった。母親の多恵は貧しい家に生まれ育ったが、器量がよかったため奉公先の西條家で虎之助に見初められ妾になった。虎之助は正妻との間に五人の子どもを設けていたが、多恵との間には多み子一人だけだった。

 多み子は生れてしばらくは母親と二人でつつましく暮らしていたが、多み子が十二歳になった時、多恵が病気で亡くなり、多み子は異母兄弟たちのいる西條家に入った。

「多み子さん、その花瓶もういりませんから捨てておいてください」

「え? でも奥様、これはお父様が買ってくださったものではありませんか?」

「いいんですよ。同じようなものがたくさんあるのですから。それに私、その色好きじゃありませんの」

「でも……」

「でも何ですか? 私の言うことが聞けないというのですか!」

「い、いえ、ごめんなさい」

「妾の子が口ごたえなどするんじゃありません! 誰のおかげでこの家に居られると思っているの!」

 多み子は虎之助の実の娘でありながら、妾の子と言うだけで西條家では女中同然の扱いをされていた。そのことに関して多み子は悔しいとか、悲しいとか、そういう感情は一切なかった。ただ、虎之助をはじめ西條家の人間は、自分勝手で贅沢で、人の優しさとか思いやりといったことは皆無に等しかった。多み子は母親の多恵に、人として一番大切なことは、相手のことを思いやる優しさだと教えられて育ったので、そのことが何よりも悲しかった。

 二年前、多み子が十五歳になった頃から、虎之助は社交の場に多み子を連れ歩くようになった。多み子にとっては姉にあたるが、虎之助と本妻との間にできた三人の娘たちも一緒だった。政界や財界、虎之助の周りに集まって来る連中の目的は金だった。そして、三人の姉たちの目的は、虎之助の金目当てに寄って来る男たちの中から若くてハンサムな男を選び出すことだけだった。姉たちはそれぞれが競い合うように着飾った。

 一言で言うならば、すべては生まれ持った『品(ひん)』、つまり『品格』なのである。品格の無い者はそれをごまかすために宝石やらドレスやら、果ては顔の表情が分からないほど塗り固められた化粧やら、そういう『物』で自分の身を覆い隠す。三人の姉たちは世間の意に違(たが)わず成金の子どもたちだった。だが、それほど着飾っているのにいつも若い男たちの目に留まるのは、姉たちに比べたらはるかに地味な、しかし確かな品格を身に纏った多み子の姿だった。虎之助の金が目当ての男たちだったが、男の本能としては皆、多み子に目が釘付けだった。それを姉たちが黙って見ているはずはなかった。

「多み子、あなたはもう夜会に来なくていいわ。お父様に言われても断りなさい」

 姉たちは知らないのだろうが、そういう場が苦手な多み子は常に断っている。それを虎之助が許さないのである。

「でも、お父様が許してくださらないのです」

「何あなた、お父様のせいにするつもり? ほんと、図々しい子ね」

「いいわね、今度ついてきたらただじゃすまないわよ!」

「でも、お姉さま……」

 結局、虎之助が許すはずもなく、多み子は姉たちに睨まれながら仕方なくまた夜会へと出向いていく。

 広い屋敷に家族や使用人、大勢の人間がいたが、多み子はいつも一人ぼっちだった。もしも、『プーさん』がいなければ、多み子はそんな境遇に耐え切れず家を出てしまっていたかも知れない。

「プーさん、おはよう。今日もいいお天気ね」

「プー、プー」

「さあ、プーさん、お散歩にいきましょう」

 プーは多み子が西條家に来た五年前、まだ生後半年足らずの子犬だった。初めは、今はもう独立してこの家にはいないが、虎之助の長男のものだった。興味半分で飼い始めたがすぐに飽きてしまい、プーも多み子と同じようにこの乾いた家の中で、やはりひとりぼっちだった。ひとりぼっちの寂しい者どうし、多み子がこの家に来て以来二人はずっと一緒に過ごしている。五年たった今、プーは立派な体つきの成犬になった。ただ、どう聞いても鳴き声がプー、プーと聞こえるので、本当は『千代丸』という、元の飼い主が付けた見栄っ張りな名前があるのだが、多み子は周りには内緒で『プーさん』と呼んでいた。

「プーさん、昨日ね、奈美ちゃんを誘ったんだけど、断られちゃったわ。奈美ちゃん、橋のむこうに行くのは危ないっていうのよ。荒くれ者が大勢いるんですって。本当なのかしら……」

「プゥ……」

 海岸沿いの浜辺を歩くのが多み子とプーのいつもの散歩道だ。

「やっぱり、そうなのかなぁ」

 多み子はプーの気のない返事に、橋の向こうに行くことを半ば諦めかけてそう呟いた。

 奈美が危ないというのなら危ないのだろうし、何もないというのなら、やはり何もないのだろう。奈美はいつだって正しいし、いつも自分のためを思って言ってくれる。どうしても橋の向こう側に行かなければならない理由はない。ただの好奇心だ。多み子は橋のことは忘れることにした。

 だが、それからひと月も経たずに、多み子は思いもかけずあの橋を、龍背大橋を渡ることになる。(つづく

  

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*1:引用「ゴンドラの唄」 吉井勇