「めぐり逢う理由」 (第一章 百年前の恋)-3-
―「痛いのはこっちの足かえ?」―
「え?」
多み子は緊張感のない男の言葉に、顔を覆っていた自分の手の指の隙間から思わず男の顔を覗き込んだ。
「靴脱いでみな」
「はい?」
「靴履いてちゃよく見えんじゃろ。早よ、その紐靴脱いでみいや」
「あ、は、はい」
多み子は男に言われるまま短ブーツを脱いだ。
「ははーん、こりゃ、ちぃとばかり腫れるかも知れんな。よし、そこで待っとれ。大人しくしとれよ」
「はい……」
多み子は一体どうなっているのか、状況がよく呑み込めずにいた。ついさっきまで、突然現れた男に襲われそうになり、もしも辱めを受けたら川に身を投げることまで脳裏をよぎった。それなのに、その荒くれ者の男は何もせず、多み子にここで待つように言い残して森の中へと消えていった。
多み子は男がいなくなった隙にここから逃げようと思ったが、足の痛みで動けなかった。多み子の足首は男が言ったように見る見るうちに腫れあがってきた。
「あの人、荒くれ者……さんじゃ、ないのかしら」
荒くれ者にわざわざ“さん”付けしたのは、とりあえず男が自分に手荒なことをしなかったことへの筋違いな感謝からだった。少し冷静になり、逃げられないと観念した途端、前向きな考えが多み子に僅かな希望を与えた。
しばらくすると、男が森の中から何やらつる草のようなものを手に持って戻ってきた。男は川原の石でその草を丁寧に磨り潰すと、自分の持っていた手拭いを、手のひらを広げたくらいの大きさに切り裂き、磨り潰した草をそれに塗り付けた。
「足、貸してみろ」
恐怖心が和らぐと、代わりに乙女としての恥じらいが芽生えた。多み子が恥ずかしがってためらっていると、
「ほれ、早よ、かしてみぃ」
「キャー」
男が再び多み子の足を掴んで持ち上げたので、多み子はのけ反ってしまい、慌ててもう一度袴の裾を手で押さえた。
「キャーキャーうるさいおなごじゃのう」
「だ、だって……」
年齢は多み子よりは上に見えたが、それほど違いはなさそうだった。逞しい体つきに都会ではあまり見かけない変わった髪型をした若者だった。男は多み子の痛めた足首に、先ほどの磨り潰した草を塗った手ぬぐいを丁寧に巻き付けた。
「よし、これでいいだろ。しばらくすれば腫れがひくはずだ」
「あ、あのー、これは?」
「これか? これは湿布薬だ。昔からこの辺りで採れる薬草だ」
「薬草……」
「こりゃあ、お前の犬かえ?」
「えっ? ええ」
「突然、人んちに来たと思ったらプープー鳴いてなぁ。腹がすいてんだろうと思って、蒸かした芋やったらばくばく食いよった。食ったと思ったら、人んちの庭にでっかいうんこしやがった」
「う、う、うん*!?」
いくらこちらに非があるとは言え、若い女の子の前でもう少し他の言い方ができないものか、多み子は自分の失態でもないのに顔を真っ赤にしてうつむいた。
「プーさんがご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
多み子は責任の所在を明確にしつつ、男に謝罪した。
「迷惑? うんこのことか? うんこは別に迷惑なことねえさ。うんこは穴掘って埋めとけば畑の肥やしになる。だから、うんこは別にいいさ。 うんこは」
(分かったから、何度も言わないで……)
「まあ、この辺の犬にしては小綺麗なんで、もしかしたら町の方か迷い込んできたのかと思ったが、やっぱりそうだったか……。ところでこの犬、プーっていうのか?」
「ええ、本当は千代丸っていう名前なんですけど、私はプーさんって呼んでるの」
「プー、プーって鳴くからか?」
「はい」
「わっはっはー。プーって鳴くからプーさんか、単純だな、お前」
男はそう言って笑った。
「た、単純? いいんですぅ、プーさんの方がかわいいから!」
多み子は『お前』だの『単純』だの、初対面の相手に何の礼儀も遠慮もない男に少し腹を立てて言った。
「かわいい? そう思っているのは、呼んでいるお前だけで、呼ばれた方はそうは思ってねえのかも知れねえぜ」
「そ、そんなこと……」
「まあ、お前の犬だ、名前をどう付けようがお前の勝手だ」
(だったら、余計なこといわないで)多み子は内心そう思ったが、確かにかわいいと思っているのは自分だけで、人間でいえば立派な大人の男であるプーさんは、本当は千代丸と呼ばれたいと思っているのかも知れない。この見知らぬ男の言うことにも一理あると多み子は思った。それに、プーさんに蒸かした芋をくれたり、自分の挫いた足を治療してくれたり、いちいち感に触る物言いのこの男に多み子が反論するだけの材料がなかった。
「お前の家、遠いのか?」
「あっ!」
男にそう言われて、多み子はこの足では家まで帰れないことを思い出した。
「どうしよう」
「まったく世話が焼けるのう。仕方ねえ、ほれ」
多み子の前で背中を向けると、男はその場にしゃがみ込んだ。
「? ? ?」
多み子は男が何をしようとしているのか分からず、ポカンとして首を傾げた。
「ほれ、早よう背中に乗れ!」
「えー!?」
「えーじゃねえ、早う乗れや!」
「い、いえ、結構です。大丈夫、歩けますから」
多み子はそう言うと、勢いよくその場で立ち上がった。
「痛ーいっ」
「ほれみぃ、まだ階段を上るのは無理じゃ。いいからこっちへ来い」
「キャー」
男は多み子を無理やり背負うと橋の階段を上り始めた。
「お、降ろしてください」
「…………」
男は無言のまま上り続ける。その後ろをプーが呑気について来る。
「降ろして……ねえ、降ろして……ください」
多み子はその願いが聞き入れられないことを知りつつ抵抗した。そしていつしか、男の広い背中で揺られながら胸の鼓動が次第に高鳴っていくのを覚えた。
(何だろう? この気持ち)
こんな姿を人に見られたら恥ずかしいとか、初めのうちはそんなことを思って抵抗したが、つまらない心配事など寄せ付けない男のまっすぐな、そして力強い歩みを身体に感じ、多み子はいつの間にかその身を男に預けていた。
「お前……」
突然の男の声に驚いて、多み子は思わず身を起こした。
「は、はい」
「お前、軽いんだな。目方はいくつだ。十一、二貫目ってとこか?」
「えっ!? め、目方って。知りません! そんなの」
「そうか? ちゃんと飯食わなきゃいけんぞ」
(なんて無粋な人なの。女の子に向かって目方だなんて。失礼ね。お米の俵じゃないんだから。これじゃ、百年の恋も冷めるわ)
多み子は男の背中に向かってほっぺたを膨らませた。
(でも、あれ? ちょっと待って。恋って何? 私、恋なんてしていないわよ)
多み子は自分で言ったことを自分で否定した。
(恋なんて私、恋なんてしていないわ。そうよ、よりによってこんな人になんて)
誰に言い訳しているのか、多み子は頭の中で必死に否定し続けた。
(なんか、変わった髪型だし、しゃべり方もすることも乱暴だし、女の子の足を無理やりつかんだり、強引におんぶしたり。でも……笑った顔はちょっと素敵かなぁ。それに、プーさんにお芋くれたり、私の足に湿布してくれたり、おぶって橋を渡してくれたり。この人、いい人なのかしら? 少なくとも荒くれ者さんじゃないみたいね)
多み子の否定はいつしか男への興味に変わっていった。
「どうだ、足はまだ痛むか?」
橋を渡り切ったところで男が多み子に言った。
「ええ、少し」
多み子は男の背中に乗ったまま、痛めた足首を少しだけ動かして見てから答えた。
「あのー、もうこの辺りで」
多み子は人家が見えてきた辺りで話を切り出した。この時代、夫婦でもない若い男と女が並んで歩いただけでも後ろ指を指された時代である。おぶって運んでくれたことに感謝しつつも、いつまでも見知らぬ男の背中に乗っているわけにもいかなった。
「まだ、だいぶ先なんじゃろ? お前の家」
「ええ、まあ。でも、もう本当にここで」
「まあ、もう少しじゃから辛抱せい」
「え? もう少しって?」
男は無言でそのまましばらく歩くと、一軒の小屋の前で立ち止まった。そこで多み子を背中から降ろし、近くにあった木の切り株に座らせ、自分は小屋の中へと入っていった。
「あの人、何をしに行ったのかしら? 勝手に入ったりして叱られないのかしら。ねぇ、プーさん?」
「プー、プー」
多み子が自分の意見に同意してくれたプーの頭を撫でていると、おもむろに小屋の扉が開き、中から一台の人力車が出てきた。
「え、何?」
菅笠に法被を羽織り、それを引いて出てきたのはあの男だった。
「これで送ってやる。これならお前も恥ずかしくなかろう」
無粋な男には、意外にも相手を思いやる優しさがあった。
「あなた、車屋さんだったの?」
「ああ、これが俺の仕事さ」
多み子は意外そうな顔をした。だが、この男の逞しい体つきはこれによって鍛えられたものなのだろうと、すぐに納得ができた。足の具合は湿布が効いたのかだいぶ良くなった気がしたが、家まではまだ五キロ近くはあるだろうし、この足で帰るのは正直なところ辛い。多み子は男の提案に従おうとして、財布を持たずに家を飛び出してきたことを思い出した。
「あのー、私、持ち合わせがないのですが」
「心配するな。けが人から金を取るようなことはしねえよ」
切り株に座っていた多み子を男は両手で軽々と抱き上げた。多み子は思わず男の首に手をまわししがみついた。息がかかるほど男の顔が目の前に見え、多み子は思わず首を引っ込めた。男は多み子を車まで運び、人力車の椅子に静かに座らせると引手を持って出発の構えを取った。
「さあ、お嬢さん、どちらまで?」
男のとぼけた冗談に多み子は思わず笑った。
「ふふ、ふふふ。そうね、じゃあ、海岸通りまで行ってくださいな」
「へい! 承知!」
数時間前、息を切らし、足を棒のようにして多み子が走ってきた道を男は慣れた足取りで軽快に、今度は逆に町の方へと走っていく。不思議な光景だった。ほんの少し前までは、この男に怯えて一瞬であったとはいえ、死ぬことまで覚悟したのに今はその男の車に乗り家まで送ってもらっている。プーも楽しそうに男に並んで走ってついて来る。多み子は車に揺られながら男の逞しい背中をじっと見つめていた。
「やさしいひと……」
さっき男に抱き上げられた時のことを思い出し、多み子は顔を赤らめひとりうつむいた。幸いにも男とプーは前を見て走っていたので、そのことは誰にも気づかれずに済んだ。
「ここがお前の家かえ? でっかい家じゃのう」
三十分ほど走って西條家の家の前まで来た男は、その豪邸を見上げながら言った。
「本当にありがとうございました。こんな遠くまで送っていただいて。大変でしたでしょう?」
男の手を借りて車から降りると、多み子もはにかみながら相手の労を気遣った。
「いいや、何もなんも。このくらいの距離大したことねえさ。それより……」
男は急に真顔になり、両手で多み子の肩をぎゅっと掴んだ。驚いて多み子は思わず肩をすぼめた。身動き一つできず、ただ黙って男の目を見つめることしかできなかった。(きれいな目……)苦しいほどに胸がどきどきしている。
「お前……」
「は、はい(どうしよう。こんな時、どうすればいいの?)」
「お前……」
「こ、困ります。こんなところで(誰かに見られたら恥ずかしいわ)」
「お前な、もう少し太った方がええぞ」
「はあぁ?」
「女はな、子供をたくさん産まにゃいけん、たくさん産むにはでかい尻してにゃいけん、でかい尻になるにはいっぱい飯食って太らにゃいけん。胸だってそうだ。いい乳出すにはでかくなきゃいけん。分かるか?」
「わ、分かりません!」
出会ったばかりの年頃の男と女がする会話じゃない。少なくとも、多み子にとって胸や尻の大きさなど、今この瞬間どうでもいいことだったのだから。
(やっぱり、この男は無粋だ。私は恋なんてしていないわ)
多み子は自分の揺らいだ気持ちを最終的には否定した。
「じゃあな、お嬢さん、もうこけたりするなよ。プー助、またな!」
「あ、あのー」
男は車の引き手を持ち上げ半回転すると、多み子の方を振り返りもせずあっという間に立ち去って行ってしまった。
「プー助じゃないもん。プーさんだもん……」
多み子は少しすねたような目でプーを見た。自分には何の興味も示さず未練も残さず、プーにだけ「またな」と言って帰っていった、男の態度にすねていた。恋などしていないと否定していたはずなのに……。女心は難しい。(つづく)
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