「あなたへのダイアリー」 (第二章 きみ寿司)-5-

きっかけは作ったぞ。後は、お前次第だ。ガンバレ!

おせっかいな担任より

 

 山下からのその短いメッセージを読み終えると、貴美子は改めて亮介に礼を言った。

「わざわざ届けてくれて、ありがとう」

「……」

 亮介は、そう言って微笑んだ貴美子に再び釘付けになり、言葉を失った。少しの沈黙の後、

「……あ、じゃあ、俺……いや、僕はこれで…」

 亮介は早々に帰ろうとした。それは、ミス英徳に対する照れからなのか、それとも、先ほどからこちらの様子を伺っている父親に遠慮してなのか、いずれにしても自分がこの場にいることが相応しくないように思えたからだ。

「お邪魔しました!」

 高校球児らしく父親に一礼し、慌てて店を出ようとすると、背後から貴美子がそれを引き留めた。

「あっ、ちょっと待って! 中谷くん」

 店の戸に手をかけたまま亮介が振り返ると、貴美子から思わぬ言葉が返ってきた。

「届けてもらったお礼に、よ、よかったら…お茶でも……いかが?」

 亮介は反射的に貴美子ではなく、父親の方に視線を送った。

「おう、ゆっくりしていきな。貴美子、上に上がってもらえ」

 職人肌の父親は、先ほどの亮介の高校球児らしい清々しい挨拶が気に入ったのか、手に持っていた包丁を振って二階へ上がるよう促した。亮介は、振られた包丁が気になったが、 “いいのか?” そう心の中で呟き、父親の方を見てきょとんとしていると、

「どうぞ。こっちよ」

 貴美子が二階への入り口となっている奥の扉まで案内してくれた。

「は、はい。で、では、少しだけお邪魔します」

 亮介は父親にもう一度確認するかのようにあいさつし、貴美子とともに奥へと向かった。靴を脱いで二階に上がると、通されたのは貴美子の部屋だった。

「少し待っていて。今、お茶を淹れてくるわね」

 そう言い残して貴美子は部屋を出て行った。これまで当然ながら、女の子のこうした部屋に入ったことなどなかった亮介は、出されたクッションに座ったまま、物珍しそうに部屋の中をぐるりと見渡した。すると、貴美子の勉強机の前の壁に貼ってある一枚の写真に目が止まった。 “ん? あれはなんだろう。どこのチームのユニフォームだろうか?” それは、背番号1を付けた恐らくどこかの高校の野球部のピッチャーの写真だった。しかし、それ以上は写真が小さくて亮介が座っている位置からはよく見えなかった。 “野球…好きなのかなぁ。それにしても、きれいな部屋だなぁ。俺の部屋とは大違いだ”

 亮介は、そう呟いてふと我に返った。自分は今、何をしているのだろう。山下からの使いで、ただ届け物を渡すだけのはずだったのに、あろうことか、ミス英徳の部屋で、しかも、そのミス英徳と二人きりだなんて。そう思ったら、今更ながら緊張してきた。そこへ、貴美子がお茶とお菓子を持って戻ってきた。

「お待たせしました」

 亮介が少しどぎまぎして、貴美子から視線を外すために部屋のあちこちを見回していると、

「あまり、あちこち見ないでね。散らかしているから恥ずかしいわ」

「ご、ごめん」

 亮介はもう、下を見るしかなかった。下を見ながら貴美子に尋ねた。

「野球、好きなの?」

「えっ?」

 貴美子は、“なぜ?” というような顔をして、すぐにその理由に気付いたようだった。少し慌てたように、

「あっ! これ見たの?」

 そう言った貴美子の顔が、赤くなったように見えた。

「いや、よく見えなかったけど、どこかのチームのピッチャーかなぁと思って」

 亮介がそう答えると貴美子は少しほっとした様子で、

「うん。野球好きよ。でも、好きになったのは最近のことだけどね」

 そう言いながら、壁の写真を外して机の上に伏せてしまった。

 “彼氏の写真だったのかな?” 亮介はやはりさっき帰ればよかったと、自分の優柔不断な性格を反省した。

「中谷くんも野球好きでしょ。どうして野球やっているの?」

 貴美子がなぜ、亮介が野球をやっていることを知っていたのか、その時の亮介は特に不思議には思わなかった。恐らく、貴美子の家を訪ねた時、亮介は先日出来上がってきたばかりの英徳高校野球部のロゴ入りのウィンドブレーカーを着ていたので、貴美子がその姿を見てそう言ったのだと思ったからだ。

「どうしてって……。小学校の時、本当はサッカー部に入りたかったんだけど、その小学校にはサッカー部がなくて仕方なくというか、なんとなくというか……」

「へぇ。そうなの」

 貴美子は意外そうな顔した。

「そうだ。中谷くん。今度、野球のこと教えてくれない?」

 “写真の彼氏に聞けよ” そう言いそうになったが言葉を呑み込んだ。

「別に、いいけど……」

 やっぱり、優柔不断な性格だと改めて反省したが、ミス英徳を前にしてはそう答えるしかなかった。

「本当! よかった」

「でも、学校に来ないと話もできないよ」

「学校じゃなきゃだめ?」

「そんなことはないけど…どうして学校に来ないの?」

「……」

 貴美子は何かを考えている様子だった。

「ごめん。余計なこと言って」

「ううん。中谷くん、中谷くんは学校好き?」

「うーん。ぼくの場合、野球のために学校行っているようなものだから……」

「そうなの?」

 貴美子がくすっと笑った。

 亮介はこの時何故か、このままではいけないと思った。どんな事情があるのかは分からないが、やはり、牧村さんは学校に来るべきだ。このまま空虚な時間を過ごして青春時代を終えてしまっては、牧村さんはきっと後で後悔すると思った。もちろん、このわずか十数年後に貴美子の命が尽きることなど、この時の亮介が知るはずもなかった。だから、何故そう思ったのかは分からない。

 強いて言えば、さっき貴美子がふと笑ったその顔が、とても寂しそうに見えた。ただそれだけのことだった。

「牧村さん、どんな事情かは知らないけど、やっぱり、学校へは来た方がいいよ。時間を無駄に生きちゃいけない」

 貴美子は『無駄』と言われ、自分の生き方を否定されたような気がして、思わず亮介に反論した。

「無駄なんてことはないわ。高校生活はあと一年だけだし、私が少し我慢しさえすれば、だれも傷つかないし、傷つけられないし。やり過ごすというのも一つの考え方だわ」

 『誰かのために……』という正義の御旗を得た時、こういう時、亮介は頑固である。

「それは、違うと思う。いいことも悪いことも、精いっぱい努力したことの結果でなくてはいけないとぼくは思う。悩んでも傷ついても、それは一生懸命に生きた人間の努力の証だ。やり過ごしてしまったら、そのあとには何も残らない。大人になって後で振り返っても、傷すら残っていない。あるのは、ただの空白な時間だけだ……」

 そこまで言うと、亮介は少し言い過ぎたと思い、それ以上は黙ってしまった。貴美子のためを思って言ったつもりなのだが、正義感をかざして説教臭いことを言ってしまうのは、自分の悪い癖であることは亮介もわかっていた。きっと、貴美子は怒ったことだろう。ミス英徳に会って、浮かれたのも束の間、貴美子との初めての出会いは気まずさだけが残った。(つづく

 

~目次~ 第二章 きみ寿司 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10

shin2960.hatenadiary.com