「あなたへのダイアリー」 (第二章 きみ寿司)-9-
それが、二十七年前、亮介が牧村貴美子と過ごした青春の思い出だった。
「懐かしい……。何もかも」
亮介は、あのナイロビで受け取った貴美子からの手紙に書いてあったことが、いまだに信じられずにいた。このまま、今、遠目に見えているあの暖簾の奥の店の戸が開いて、貴美子がその姿を少しだけでも見せてくれたなら、貴美子の幸せそうな顔をほんのわずかな時間でも見届けることができたのなら、そのままこの街を離れようと亮介は思った。
「貴美ちゃん、あの手紙は、ぼくを困らせるためにした、君のいたずらなんだろ? だって、おかしいじゃないか。死んだ人間が手紙を出すなんて。知らない人間からの手紙じゃ僕が受け取らないと思ったんだろ? だから、自分の名前を書いてよこしたんじゃないのかい? 君は……君は生きているんだろ?」
店の暖簾の前に立つ、貴美子の幻に問いかけた。しかし、貴美子の幻はやさしく微笑むだけで、亮介のその問いかけには何も答えてはくれない。
辺りはもうすっかり暗くなってしまった。貴美子の幻に別れを告げ、亮介は今日の宿に向かうことにした。
「ただいま!」
その時、突然のその声で貴美子の幻が消えたのと同時に、一瞬の風で開いた暖簾の僅かな隙間から、店の灯りに照らされて、その中へと入っていく見覚えのある制服姿の少女の横顔が見えた。
「き、貴美ちゃん!」
亮介は思わず叫んでしまったが、すぐに思い直して “まさか、そんなバカな……” と、今度は言葉を発せず心の中でつぶやいた。気がつくと亮介は、いつの間にか店の前に立っていた。
「おかえり!」
入り口の戸は既に閉められていたが、店の中からそんな声が聞こえてきた。 “あの娘は…いったい誰なんだ” 何が起きたのか、事の次第が呑み込めないまま、亮介が暖簾の前で呆然としていると、再び店の戸が開く音がして、中から先ほどの少女が現れた。
「あら? いらっしゃいませ……」
店の前に立っていた亮介に気付いて、少女が片手で暖簾を分けて顔をのぞかせた。
「おじいちゃん、お客さんよ!」
暖簾を分けた手はそのままに、少女は後ろを振り向くと、客が訪れたことを店の中に伝えた。
「さあ、どうぞ」
少女は店の入り口をもう少しだけ広げ、暖簾を持つ手とは反対側の手を使って亮介を店の方へと導いた。
「あっ、いや…」
客ではないと否定しようとしたが、奥から「いらっしゃい!」と威勢のいい声をかけられてしまい、反論するタイミングを失ってしまった。仕方なく観念して、亮介は店に入ることにした。
少女は亮介が店に入るのを見届けると、それ以上は何の興味も示さず、そのまま、またどこかへと出かけて行った。
店は小さいが小綺麗にしており、昔あのままこの街に住んでいたら、きっと常連の客になっていたことだろう。店の大将は、あの日、たった一度だけ会った貴美子の父親のようだった。
「こちらへどうぞ」
大将は亮介をカウンターの真ん中に座らせた。亮介が椅子に座りながら、恐るゞ大将の顔を覗き込むと、そこに見えたのは、厳しさの中にも優しさを持った、あの時と同じ目をした確かに貴美子の父親の顔だった。
“あれから三十年近くも経っているし、俺のことは覚えていないだろう”
亮介は、偶然店を訪れた客になりきることにした。
「いいお店ですね」
「そうですか? ありがとうございます。狭い店ですがね」
大将は箸とおしぼりを手際よく亮介の前に並べた。
「なにか、お飲みになりますか?」
「じゃあ、ビールを」
「へい。少々お待ちを」
ほどなくして、ビールとお通しが出された。最初の一杯は大将が注いでくれた。店は相変わらず大将が一人でやっているらしい。
「先ほどのお嬢さんは?」
さっきの少女のことが気になって、ビールを注いでもらいながら何気無く尋ねてみた。
「ああ、あれは孫です。優子って言います。じゃじゃ馬でねぇ」
『じゃじゃ馬』といういい方が、職人気質と年代を感じさせたが、そのことには触れず、
「そうですか」
特に興味がない振りをして、ビールを一口だけ口にした。(つづく)
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