「あなたへのダイアリー」 (第二章 きみ寿司)-3-
貴美子が亮介のことを初めて知ったのは、貴美子が転校して来てから三か月ほどが経った頃、長く厳しかった冬もようやく終わりを告げ、なごり雪が、土の中から顔を出したばかりのふきのとうを「まだ早い」と覆っては見たものの、すぐに溶けて無くなった、三月に入って最初の日曜日のことだった。
転校してきてすぐ、自分の男を取られると勘違いした不良グループの女にいわれのない嫌がらせを受けた貴美子は、そういう煩わしい人間関係に嫌気がさし、学校へ行くことを止めた。あと一年、高校を卒業するまでは我慢して、そのあとは東京の大学へ進学することを考えていた。
前の学校では友達は大勢いたが、この町に来てからはほとんど一人だった。昼間は家で勉強し、夜は店が忙しいときにだけ父親を手伝った。遠くにいる友達と、メールでいつでもやり取りができる今の時代なら、近くに友達がいなくても寂しさも、虚無感も感じなかったかも知れないが、この時代にそれは叶わなかった。近くで友達を作るのが面倒なら、後は我慢して時をやり過ごすしかなかった。だから、貴美子にとっての青春は、只々時間だけが過ぎていく空虚なものでしかなかった。
少なくてもその日、近所の写真館の店主が貴美子を呼び止めて、いつものようにジャイアンツの自慢話を聞かせようと思わなければ、そして貴美子が、その店主の自慢話に少しだけ付き合おうと思わなければ、貴美子にはそんな毎日がずっと続いていたのかも知れなかった。
「貴美ちゃん、いいもの見せてあげるからちょっと寄っていきな」
ある日、買い物帰りの貴美子にそう声をかけてきたのは、商店街にある写真館の野球好きで有名な店主だった。貴美子は、店主にまたジャイアンツの話を聞かされるのかと思い、適当な用事を見つけて断ろうとした。
「あ、えーと、そうだ、父が家で待っているので早く帰らないと……。すみません」
「源治さんなら、さっき商店街の寄り合いに出かけたよ。うちは女房が顔を出すんで一緒に行ったはずだよ」
「はぁ、そうですか」
「なっ、だからちょっと寄っていきなよ」
貴美子の作戦はあっけなく失敗に終わった。仕方がなく観念して、少しだけこの店主に付き合うことにした。貴美子が店主の誘いに気が乗らなかったのは、野球を知らなかったからと言うよりは、ほとんど興味がなかったので、店主がいかにジャイアンツの自慢話をしたところで右から左へと話が抜けていくだけだったからである。
「貴美ちゃん、昨日の桑田、すごかったろう! ほら、覚えているかい? 最後に投げたのが、この前教えたあのカーブだよ。ずっと速球で押していて最後にあのカーブだからなぁ。ありゃ打てないよ」
いつにも増して力が入っていると思ったら、店主はどうも、わざわざ東京までジャイアンツの応援に行って来たらしい。
「昨日、後楽園に行ってきたんだよ」
「えー! 東京まで行ったんですか?」
「そうだよ。デーゲームだったけど、帰ってきたら夜中になっちまったよ」
「好きですね、ほんとに」
「そんなことよりさ、これ見てよ。いいだろ?」
店主はそう言って貴美子の前に、後楽園で買ってきたというジャイアンツのグッズを並べて見せた。
「これ、買ってきたんですか?」
貴美子は、“わざわざ” と付け加えそうになったが、店主の満足そうな顔を見て言葉を呑み込んだ。
「そうだよ。見てよ。バットにボール、それと帽子とジャンパー。これ、みんなジャイアンツのマーク入りだよ」
「い、いいですね」
駅前のスポーツ用品店にも、同じようなものがありそうだと思ったが、貴美子はとりあえず、店主に同意した。
「やっぱり? 貴美ちゃんもそう思う? そっかー、仕方ないなぁ、じゃあ、この中のどれか一つ、貴美ちゃんにあげよう。特別だよ」
「い、いや、そんな大切なもの頂くわけには……」
貴美子は少しオーバーに遠慮したが、店主は初めから貴美子に貰って欲しかったようである。
「いいんだ、いいんだ。同じジャイアンツファンとして持っていてよ」
いつの間にかジャイアンツファンにされた貴美子は、再度、遠慮して見せたが、店主がどうしてもくれると言うので仕方なく一つ貰うことにした。バットとボールは生涯使いそうもないし、ジャンパーも球場の観客席で着ている分にはいいだろうが、とても普段、街で着て歩けるような色ではなかった。唯一、貴美子の中で合格点が出た野球帽を貰うことにした。
「じゃあ、これを頂いてもいいかしら?」
「おっ、お目が高いね。それね、選手がかぶっているものと同じ本物だからね。駅前のスポーツ用品店で売っているような偽物とはわけが違うよ」
「そ、そうですか」
そう言いながら、貴美子は苦笑した。店主はその野球帽を貴美子にかぶせると、自分はボールを握って、桑田の投球フォームを真似し始めた。
「恐らく、キャッチャーのサインは初めストレートだったと思うよ。だけど、桑田はさ、首をこう横に振ったんだよね」
桑田になりきった店主を見て貴美子は、これは長くなりそうだと諦めつつ、店のカウンターに広げられた何枚かの写真をぼんやりと見ていた。すると、その中の一枚が貴美子の目に飛び込んできた。それは、ジャイアンツの選手ではなく、英徳高校野球部の選手のものだった。
「お、おじさん! これは?」
店主はまだ一人で桑田の真似をしていたが、貴美子の驚いたような声に投球モーションをしたまま振り向いた。
「ど、どうしたの?」
「おじさん、これ、うちの高校の野球部でしょ?」
「そうだけど、それがどうかしたのかい?」
「この人……」
「ああ、中谷か。こいつ、いい顔しているだろ。普段はぼーっとしていて頼りないんだが、野球やっているときだけは、いい表情するんだよ」
店主はそう言って貴美子から写真を受け取り、しみじみと語りだした。
「ピッチャーとしても優秀でね、こんな小さな町でも今年は甲子園も夢じゃないなんてね。そうなったら、町中で応援しようなんて、いまから盛り上がっちゃってさ。まぁ、甲子園なんてそう簡単に行けるものじゃないけどね」
そう言いながらも、店主は亮介に淡い期待を寄せているようであった。甲子園へ行くことの重みはわかっていなかったが、空虚な毎日を過ごしていた貴美子にとって、亮介の野球に打ち込む真剣な眼差しがとても眩しく見えた。
「おじさん、その写真もらってもいい?」
「ああ、そりゃ構わないけど、あれ? 貴美ちゃん、中谷に興味があるのかい?」
「ううん、そんなんじゃないわ」
「そうだ! じゃあ、もっと大きく引き伸ばしてやろうか?」
店主はそう言って、からかい半分に両手を大きく広げて見せた。
「そんなんじゃないってば。これでいいの!」
貴美子は店主から写真を奪い取って胸ポケットに大事そうにしまった。そして、
「おじさん、お帽子ありがとう。ジャイアンツ、今夜も勝つといいわね!」
そう言い残して店を飛び出して行った。
「気を付けて帰るんだよ!」
貴美子は走りながら手を振って行ってしまった。
「お帽子か……。ジャイアンツも形無しだな」
店主は貴美子の後ろ姿を見つめながら、貴美子にまんまと逃げられたことにも気づかず、呑気な顔をしてつぶやいた。(つづく)
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