「あなたへのダイアリー」 (第二章 きみ寿司)-1-

きみ寿司

 東北の春は遅い。しかし、いったん春が訪れると、あたりの風景は一変する。

 アフリカを発って丸二日、日本に着いた亮介は、今、宮城へと向かう電車の中にいた。そこは、亮介の生まれ故郷であり、牧村貴美子とともに短い青春時代を過ごした思い出の場所でもある。四月も、もう終わろうとしているこの時期、亮介がティムに見せたいと言っていた桜の花は、ここ宮城の地でまさに満開の時を迎えていた。

 亮介の実家のあった町へは、東北本線の駅から、さらにローカル線を乗り継いで行かなければならなかった。観光名所があるおかげで、シーズン中には多くの観光客がやってくるが、普段は静かな農村地帯である。毎年冬にやって来る渡り鳥も、今はもう旅立ってしまった後でその姿はどこにも見当たらない。北上川が町の中を流れる昔から水のきれいな場所だった。

 ここへ来るまでの車窓から見えた景色は、二十七年前、亮介が故郷を去る時に見た景色とほとんど変わらなかったと思うが、当時の景色を亮介は覚えていない。あの時、車窓に映っていたのは故郷の景色ではなく、不安で悲しそうな貴美子の顔だけだった。

 亮介はその町で生まれ、十七歳の夏までそこで過ごした。その十七年の間、亮介が貴美子と一緒に過ごしたのは、わずか数か月間だけであった。

 “二人は恋人同士だったのか?“ と問えば、恐らくその答えはノーである。貴美子が亮介を、亮介が貴美子を好きであったことは間違いない。ただ、お互いを恋人と呼ぶには、あまりにも幼すぎる恋だった。と言うよりは、まだ始まったばかりの恋だった。会うたびに相手のことが気になり、お互いの存在が日ごとに胸の中で膨らんで行き、相手を思いやり、優しい気持ちになり、毎日が楽しく、景色が色づいて見えた。時には、相手の気持ちが分からず不安になったり、怒ったり、泣いたり、許したり、はにかんだり、とにかく常に相手のことを想わずにはいられないのである。もし、初恋というものにそんな定義があるとするならば、きっとそれは、二人にとっての初恋だったのだろう。そして、そんな風に人を好きになることができるのは、今も昔も青春時代を生きる若者だけに与えられた特権なのだと思う。

 ”初恋は実らぬもの“ などと、自分が大人になってしまった若者達は主張するが、亮介と貴美子、二人の間にもう少しゆっくりと時が流れていたのなら、あるいは二人の初恋は実ったのかも知れない。そして、いつしか二人は、恋人同士と呼ばれていたのかも知れなかった。

 あの夏の日、今はもう、その町の人さえも忘れてしまった、あの事件さえ起きなければ……。

 

 夕方五時過ぎ、亮介はその町の駅に降り立った。

「都会と違って、こんな田舎町は、三十年近く経っても、あまり変わらないものなんだなぁ」

 春先で日が長くなったとは言え、あたりはもう薄暗くなってきており、駅のホームも人影はまばらである。改札を出て、亮介はときおり道を確かめながら、駅前の小さな商店街に向かって歩き出した。昔、どんな店がこの商店街にあったのかはよく覚えていないが、それぞれの店の雰囲気からして、おそらくあの頃のまま、今もここで商売を続けているのだろう。もう夕方だからなのか、それとも、もう何年も店を開けていないのか、シャッターが閉まっている店も多かった。まだ開いている店の中に一軒、見覚えのあるスポーツ用品店があった。当時、高校の野球部だった亮介は、野球の道具をこの店でよく買っていた。スポーツ用品店は町に一つしかなかったので、亮介に限らず、他の野球部員も皆この店で買っていたが、テレビで見るような流行りのものは置いてなく、商品の種類も偏っていた。とりわけ、野球用品については、ジャイアンツのマークが入ったものが多かったが、それが本物であったかどうかは、いまだに分からない。

「ここで、みんなでお揃いのウィンドブレーカーを作ったよなぁ。懐かしいなぁ」

 亮介は、あの頃、甲子園を目指して必死に頑張っていたことを思い出した。テレビで見たプロ野球選手が着ていたウィンドブレーカーに憧れ、それと同じように作ってほしくて、この店に注文したのだが、出来上がってきたものは、亮介たち野球部員の期待したものとは大きくかけ離れており、何だか安っぽい仕上がりだった。それでも、自分たちの発案で作った揃いのウィンドブレーカーを着ることで、その時、チームの一体感が、より一層高まったことを覚えている。

 ガラス越しに店の中を覗いてみると、坊主頭の高校生らしき男の子が、ぼろぼろの野球のスパイクを持って何やら店員と話し込んでいる。“スパイクの修理だな”亮介は、その男の子が店に来た目的がすぐに分かった。このスポーツ用品店は、壊れたスパイクの修理もやってくれる。昔もそうだった。新しいスパイクを買うより、こうして修理に出した方がはるかに安いので、何度も何度も修理して履いた。それで、いよいよ修理することが難しくなると、それを親に見せて、新しいもの買うしかないことを納得させたものだった。

「後で、英徳高校の野球部の試合を観に行ってみようかな……」

 亮介は店先に飾られていた、『英徳高校』の文字が縫い付けられた野球のユニフォームを懐かしそうに見つめた。

 スポーツ用品店の前を通り過ぎ、しばらく歩いて商店街を抜け、通りを一本隔てた路地に亮介の目指す店はあった。

「ここも、昔のままだ……」

 亮介は一度だけこの店に来たことがある。高校三年の春、貴美子と初めて出会ったのが、貴美子の実家、つまりこの店だった。店から少し離れた場所で様子を伺うと、暖簾はさすがに何度か新しいものと交換しているのか、今は比較的新しそうだが、木製の看板は三十年余りの月日を経て風格さえ感じられる。『割烹 きみ寿司』昔と同じ字体でそう書いてある。亮介は、ここで貴美子と初めて出会い、あの時交わした会話の一つひとつを思い出していた。亮介の見つめる視線の先には、店の前に立つ二十七年前の自分がいた。(つづく

 

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